巨大技術&巨大システム

 技術の巨大化とその必然として派生するシステムの巨大化は思わぬ陥穽をもたらすものである。今回の東海村JCOの臨界事故は、それがまさに端的に現れたものと云ってよいのではなかろうか。新幹線、ジャンボ旅客機、原発等々皆同じ陥穽を内在させていると云えよう。各々の巨大技術とシステムはセイフテイネットをもって安全性を担保している。しかし、安全ネットのほころびは、いつも思わぬ処から出現するのである。十年余前の日航ジャンボの隔壁金属疲労も最近の新幹線トンネルのコンクリート破損も、今回の核燃料処理工程の臨界事故も、その時点では思わぬ処から発生している。


 金融システムとて、同じことが云えるのであり、米LTCMの破綻とて金融工学の粋と最先端を集約したシステム設計からは起こり得ないことと考えられていたが、国家リスクの対象外から発生した予定外の変動に対応できなかったことから生じたものと理解している。改めて思うのです。巨大技術も巨大システムもコンピューター無しには成立し得ないし、維持できない。同時に逆の視点から云えばコンピューター頼りの技術やシステムの内在する脆さ或いは限界について、十分に理解しておく必要があるのではなかろうか。
 「コンピューターの出力結果はこう出ていますから、間違いありません」というデジタル過剰信仰にあふれた話も時々聞くことがあります。「入力ミスさえなければコンピューターは間違えません」という話はもっと多く聞きます。いずれも当初のシステム設計は人間が行ったものであり、設計当初に万全を期したとしても、その後の状況変化には対応できていないし、状況変化に対応できる設計であったとしても、当初の設計の枠を超えた状況変化には対応できない。別の観点
からいえば、多くの事象と人間との間に常にコンピューターが介在する現代社会の持つ陥穽といったものにも注意する必要があるのでしょう。こういったコンピューター及びコンピューター社会が内在させている限界というものを常に予期しておく必要があるのではなかろうか。
 巨大技術やシステムは、巨大且つ精密なるが故に極々一部の破損や欠陥が重大な結果をもたらし易いということも承知しておかねばならない。新幹線トンネルの破損も大型旅客機が携帯電話に弱いこともおなじであろう。最も怖いのは巨大技術やシステムに関わる安全神話である。過去に事故が無かったということは、確率的にはこれから起きうるという風に捉えるべきであり、だからこそ神話なのだと考えるべきである。さらに人間というものが持っていいる本質の一つに学習による慣れと怠慢がある。無事故や安全が継続すればするほど技術やシステムに対する依存性が高まり、それが慣れと怠慢に結びついてゆく。新幹線もジャンボも離発着を除けば、その運転は退屈なものだと聞きます。ATSや自動操縦システムに任せておけば、運行中は人の介在はかえって邪魔になるものだとも聞きます。
 しょっちゅうパンクしたりエンストしたるする中古車に乗っていた30年前を思い出すと、点火プラグの交換や掃除、エアフィルーターの点検、オイルチェック、タイヤ交換など日曜日は車のボンネットを開けて、素人なりに車と対話していた記憶がありますが、最近は車内のパネルからモニタリングができるし、第一、ボンネットを開けても何がなんだかさっぱり判らなくなっています。だから、車の小さな異常音にも気付かなくもなっています。ことの大小は大きく違いますが、身の回りの技術の進歩は、身の回りの異常に対する本能的或いは初歩的な感性さえも鈍くしているような気がするのです。

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