茫猿遠吠 万博・空港・河口堰

2005年に愛知県瀬戸市の「海上(かいしょ)の森」他で開催が計画
されている愛知万博が暗礁に乗り上げかけている。愛知万博は「自然と
の共生を目指す」をテーマに開催が計画されているのだが、実はこのテー
マは後付であり、当初の目標は違っていた。悲喜劇はそこから始まる。
愛知県つまり名古屋を中心とする中部圏域は関東圏と近畿圏の狭間に位
置し、三大都市圏三兄弟の末弟として、背伸びを宿命として先発圏域の
後追い行為から逃れられない状況に常にある。東京圏や関西圏とは異な
る独自性を発揮すれば、全国の注目を浴びると同時に、より高い地位が
得られたのかもしれない。いや得られたであろう。しかし、独自性を発
揮すると云うことは、その見返りとして危険負担が伴うものであり、そ
の様なリスキーな冒険に向かうほどの進取性は石橋を叩いても渡らない
県民性からすれば無い物ねだりということなのである。
だから、東京五輪、大阪万博の次に位置づけて名古屋五輪を計画したが、
残念なことにソウルに誘致合戦で負けてしまったのである。次いで、大
阪万博にならい愛知万博誘致を計画し、これには見事成功した。
ただ、誘致発想の根底が万博による地域興しであり、基盤整備と称する
巨大土木工事出現への期待であったから、計画が進むにつれて全体整合
性が取れなくなってきたのである。(名古屋市が先年開催したデザイン
博や岐阜県開催の未来博という地方博が成功したことも、県として万博
に走る誘因の一つだったかもしれない。)
つまり、万博誘致により道路・港湾・空港等のインフラ整備を行おう、
巨大土木工事を立ち上げようという官界財界の思惑が根底にあり、万博
はその手段にしか過ぎないことの矛盾点が露呈しつつある訳なのである。
万博跡地を新住宅市街地開発事業の対象として、2000戸の住宅地を
開発しようと云う訳である。万博用のインフラ整備はこの新住宅事業計
画により行うということである。
これにBIE(博覧会国際事務局)が、難色を示したわけである。今や
開発は環境との共生或いは整合が必須であるのに、環境との共生を掲げ
る万博が都市近郊に残される山林(里山)を切り開いて造成しようと云
うのは、大きな矛盾ではないのかという訳である。(※このBIEの件
については、影響力の高い地元紙である中日新聞が最初にスクープ報道
したことは大いに注目されてよい。何らかの背景があると見るのは深読
みだろうか?)
別の云い方をすれば、「環境との共生」というテーマで世界に発信した
い、その発信手段として万博という機会を設けたい。と云う当初構想か
ら始まれば、残された数少ない自然環境を赤土の造成地に変えようと云
う発想につながる訳もない。
しかし、国庫補助が得られる新住宅地造成計画によって造成地を開発し
基盤整備を行い、数ヶ月間パピリオン中心主義の旧来型万博を開催して
世間の耳目を名古屋に集め、その後に跡地を住宅地に転換して開発利益
を得よう。という、ボタンの掛け違いというか、本末転倒とも云える矛
盾が今にいたって現れたのである。
さあどうするか。予断を許さない。同時に愛知万博開催時には最も重要
なインフラとして中部新国際空港を常滑市沖に建設しようと云うプロジェ
クトが進行しているが、「万博コケタラ皆コケタ」には、まさかならな
いと思うが、世の中には三つの坂があるという。
「上り坂、下り坂、そしてマサカ」である。国内博ならイザ知らず万国
博である。しかも万博のもたらす光と陰については日本のみならず世界
各地で。開催意義が問われる時代になっている。マサカが無いというの
も予断に過ぎないと考えるのは茫猿だけであろうか。一般社会や経済界
にマサカ事象が多い昨今のこと、官界にもマサカが出現するかもしれな
い。
中部圏では、その事業の必然性が話題になっている巨大公共事業が幾つ
かある。既に完成はしたが、運用差し止めが折にふれて話題になる長良
川河口堰がある。利水目的として30年前に出発した計画は、その後、
工業用水需要の低下(産業構造の変化とリサイクルの進展により水需要
が伸びなくなった)と、人口増加率低下による上水道需要の伸び率鈍化
等により治水目的に転換したが、その目的も概ね達成された今は水質悪
化を招く堰の運用停止が自然保護団体を中心として求められている。
ヤマト蜆を絶滅から守るためにも、天然鮎やサツキマスの遡上を阻害し
ないためにも、運用停止が求められているのである。
もっと面白いと云ったら失礼だが、河口堰の水源利用を約束した関係市
町村では工事費の償還負担から水道代の値上げを招いていることであり、
同時に河口堰湛水を利用することから悪臭(実際には体験していない、
新聞記事である)という水質悪化に悩まされていることである。
揖斐川上流に計画されている徳山ダムも同じ文脈上にある。徳山ダムは
徳山村を廃村し全住民を村外移転させて、つい最近に本格着工された巨
大ロックフィルダムである。ダムの必要性が真実か否かが問われている
と同時に絶滅に瀕しているオオタカやイヌワシ生息地の保護も求められ
ているのである。このダム計画も出発は30年ほど以前にさかのぼる。
そして、前述の愛知万博である。直ちに中止しろなどと短絡した云い方
をするもりはない。
しかし、変化が激しく早い時代に、10年前まして30年も前の基本計
画を金科玉条にすることは、とても危ういとは考えられないのだろうか。
墨守することは美徳である。しかし、単なる時代遅れの頑固者の一面も
あるので、時流の変化に大胆に率直に対応する姿勢がなぜ得られないの
かが不思議である。
着手した事業は何が何でも完成させる。途中で止めればそれまでの投下
資金(税金)が無駄になる。同時に起案し着手した先輩官僚の行為を批
判することになる。このような論理がまかり通ることに奇異は感じない
のだろうか。客観情勢の変化は当時必要と考えた事業とて、不要になっ
たり方向転換が望ましい状況になったとて何の不思議もない。
第一、中止も含めて抜本的見直しを行うことは、全体として資金・資源
の有効利用なのではないのか。

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