宗教者の真贋

 オーム真理教といい法の華といい、宗教に名を借りた、詐欺行為や金
儲け行為がまかり通っているようである。宗教者の真贋を見分けるのは
難しいものである。特に心に余裕がない人にとっては「溺れる者、藁を
も掴む」という状態だろうから、真贋を云々する前に、一端信じ込んで
しまえば「鰯の頭も心事から」の心境 だろうから、尚更のことであ
ろう。
 昔、瞑想と説教に一日を暮らしていたお釈迦様は、畑で農作業に精を
出している農夫から、こう問われたそうだ。「私は、農作物を育てて、
皆のために働いて いる。アナタは何をしているのか。」
 釈迦は答えて曰く「私は皆様の心を耕している。」
本当の宗教家か、そうでないかの、真贋の見極めは結構難しい。しかし、
直ぐに金銭を要求するとか、やたらと霊感や神秘性を強調するとか、結
構な伽藍や贅沢な暮らしやしているとか、現実的利益を強調したり伽藍
に一般人を寄せ付けない、等ということで区別できるのではなかろうか。
 お釈迦様に始まる仏教の教えは、根元的には葬式は行わないものであ
るが、日本に入り土着信仰や現世権力と結びついて葬式や国家祈祷を行
うようになり、壮大な伽藍を建築した。出発点の質素さや直裁さと、そ
の後にたどる経過は、耶蘇教でも回教でも同じ事であろうと思います。
 宗教が社会に一定の地位を占め、権威を得るるようになると、権力者
はその権威を自己の地位保全の為に利用しようとし、非権力者は宗教の
庇護の元に、或いは 権力の階段上昇のために宗教を利用しようとす
る。そのシナジー効果が宗教を俗化させ、絢爛豪華な伽藍を建築させる
ようである。
それらの永年の宗教権威と俗界権力との癒着融合の歴史から学んだ結果
を生かしているのが、多くの新興宗教の昨今の在り方といえば、言い過
ぎでしょうか。ただ、彼等にも有効な言い訳がある。
 庶人を救済する目的を実現する手段として、俗界権力との連携を行う
のだ。或いは、庶人救済目的のために俗界権力を利用行使しようとする
のだ。つまりは方便である。だが、多くの場合は、方便に止まらない。
方便としての手段がいつの間にか目的にすり替わってしまっているよう
です。
 ローマ法王との謁見写真(謁見団に寄付をして潜り込んだのに)や、
マザーテレサとの会見写真、或いは米国大統領や国連事務総長との会見
写真を、機関誌やパンフレットに掲載しているのは、何も宗教家に限っ
たことではない。国会議員など多くの政治家の常套手段でもある。大き
くは外国要人とのツーショット写真であり、小さくは、首相や大臣との
会見写真などを権威付けに流用する新人議員や地方議員の横行は、枚挙
にいとまがありません。
 しかし、それとても、そのような写真を見て、オラが先生も偉くなっ
たものだと、背景も確かめず無批判に有り難がる小市民の存在が、この
ような横行を招いてい るのだと考えます。正しいモノと正しくないモ
ノ、権威におもねる者と権威に距離をおく者との真贋を見定める眼力を
持ちたいものだと思います。

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