【只管打座・・伝わらないことを知る・・01.10.23】
意を伝えることは難しい。言葉を駆使して思いの丈を伝えようとしても、伝えようと焦れば焦るほど伝わらない。パソコンの共有設定みたいにチェック一発で想いを共有できたらどれほど楽であろうか。でもそうなったらなったで、恋愛のある種の醍醐味は味わえなくなるか。
今でも知人・友人に久しぶりに会えば、「眼の具合はその後いかがですか」とか「もう随分と良くなりましたか、完治されましたか」と、お見舞いの言葉を頂きます。「いやー、完治はしていません。」と答えると「まだまだ時間が掛かりますか」と問われる。
外傷であれば、怪我の状態を見せて情報を共有できるから説明が楽であろう。質問する人と私が同じ病気に罹り治療した経験を共有していれば共通体験に基づいて説明できるかもしれない。
でも眼の状態は説明ができない。「靄か紗がかかったようで、物が遠くにぼんやりと見えたりすると思えば、ややはっきり見えたりもします。紙の端や直線が歪んで見える時もあります。少し疲れると、何か眼に圧迫感があって、眼を取り出したくなります。」などと言っても、なかなか理解してもらえない。
小生も自分の症状を長々と読者に説明しようとしているのではない。
そうではなくて、人はその立場にならないと真実は理解できないということが言いたいのである。よく似た意味で、戦時中のことも理解できない。時空を越えて共有する体験の乏しさから、理解の深耕が進まないのである。
と云うよりも理解できないと言うことを知ることから始めるべきである考えるのである。アフガンのこともNYのことも同様である。人と自分は違うということも含めて、共有する情報や経験の違いの大きさを自覚することから始まるのではなかろうか。
伝わらないと否定的に云っているのではない。無常観や孤独感に酔っているわけでもない。前にも茫猿遠吠に「他は己ならず」と題して記事を書いたが、自と他の間に存在する無限にも近い距離の存在を意識する処から共有とか共感ははじまるのではなかろうか。その意味からは安易に「相互理解」を口にすることに、茫猿は畏れを感じるのである。
『茫猿遠吠・他は己ならず』
http://www.morishima.com/cgi-bin/np_boen/newspaper.cgi?action=view&code=994367214
「蛇足」
眼を患ったと云うことは、茫猿にとって歓迎できないことであったが、「見えなくなって見えるものもある」という心境を少し理解できるようになったことは、「眼患いもそれほど悪いことではないな」という、最近の心境です。
・・本稿終わり・・
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