中国残留孤児について、30数年ぶりに、やっと国の責任を認める判決が示された。それも拉致被害者との比較で国の支援策の不十分さや、不当な格差を指摘した上のことである。
遅すぎるのである。拉致被害者についても政治問題化するのがあまりにも遅かったのであるが、残留孤児は日本という国の責任の所在がより明らかに問われるだけに、日本という国家の怠慢が厳しく指摘される。
72年の日中国交回復後に残留孤児の肉親探しが毎年行われるようになった時、一番疑問に思ったのは、なぜ可能な限り速やかに全員を日本に帰国させないのかということである。当時既に孤児となってから30年近くが経過していたわけであり、日本の肉親の年齢などを考えれば急ぎに急いでもよかったわけであるのに、様々な条件を付けて肉親探しも帰国支援も遅々として進まない印象があった。
教育基本法改正で「愛国心」が話題になっているが、日本国民の保護すら十分にできない、というより不十分にしか行おうとしない日本国家に誰が愛国心を持つというのであろうか。ここで云う日本国とは政府等国家機関としての日本国である。故郷、ふる里や、「国籍、人種、宗教信条を越えて、今ここに住まう人々」を指しての「にほん」とは明らかに区別したい。
同じ頃から疑問なのは「残留孤児」という表現である。本人の意志で残留したわけではない。安部総理や塩崎官房長官がイラク戦争当時にイラクで捕らわれた日本人について「自己責任論」を展開したが、残留孤児は敗戦当時十歳未満の幼児であり、自己責任を問われるいわれはない。
置き去りにした肉親の責任が問われるモノでもない。満蒙開拓という国策にしたがい大陸に渡り、関東軍に見放されて難民化した当時の日本人に自己責任を問うことはできない。
問われるのは無責任にも中国大陸に国民を誘導し開拓の苦労を与え、挙げ句の果てに敗残の地に放置した日本国家の責任が問われるのである。
45年の敗戦からしばらくはやむを得ないとしても、その後、国連に加盟し、オリンピックを開催し、万博を開催した日本という国家に、「残留させられた孤児達」を救い出す力が無かったと云わせることはできないのである。
だから「残留孤児」という表現は正しくない。「(日本の)遺棄孤児」または「(日本の)棄捨孤児」と云うのが正しかろう。「残留孤児」という表現は70年代当時の厚生省をはじめとする政府の「責任逃れ」または「責任隠蔽」が背後にある表現ではなかろうか。
そして、それを唯々諾々と許してきたのは、マスコミだけでなく、我々日本人自身の問題意識なのである。一つ間違えば、親が中国に渡ったかもしれないし、中国で遺棄されたかもしれないのである。我が身にも起こり得たという想像力が欠片ほどもあれば、「残留孤児」などという無責任極まりない他人行儀な表現で、今日までこの問題を放置して来なかったであろうに。
それほどに国力が乏しい国ならば、やむを得ないと諦めることもできようが、およそ科学性が乏しいミサイル防衛に巨額の資金を投じようという国である。「自己の意志に関わらず残留させられた孤児達」に「老後の安寧を用意して差し上げるくらいのこと」は容易にできように。
それすらもできずに、「美しい国」とか「愛国心」とか「再チャレンジ」などと軽々しく言揚げしないで頂きたいモノである。
今は、安部総理に期待すること大なのである。小泉総理が「ハンセン病裁判」で国家責任を認めた判決を受容したように、この判決に控訴することはしないで頂きたい。高齢な原告団に対して控訴すると云うことは「彼等が死するのを待つ」と云うことと同じなのだという、ただそれだけの想像力を持って欲しいのである。
そして、「いわゆる残留孤児裁判」以外にも、1935年から1950年にかけての日本という国家の責任を問う裁判が幾つかある。原告は日本国籍者もあれば、朝鮮半島出身者や中国大陸出身者の場合もある。これらの高齢化した原告が提起している幾つかの裁判について、司法の判断に委せることなく「政治の責任」として戦後処理を速やかに終わらせて欲しいのである。
何も過剰な補償や弁済を行えと云うのでは無い。和解という方法もあることだし、惻隠(そくいん)の情と云うものを発露してほしいのである。大人の国家としての対応を示して欲しいとのである。
日本という国家が示す、そのような包容力こそが、本当の愛国心につながるのではなかろうか。
ところで、マスコミに溢れる漢字熟語やカタカナ表現には注意しよう。
言い換え、すり替え、置き換え などの目眩ましが多いから。
自民党復党問題 →(本当は)→ やらせ刺客選挙&野合
郵政民有化 →(本当は)→ 郵貯外資売り渡し
郵政民有化 →(本当は)→ 過疎地ライフライン撤去
再チャレンジ税制 →(本当は)→ 企業優遇、市民冷遇税制
イジメ問題 →(本当は)→ 学校の人権擁護義務違反
派遣労働 →(本当は)→ 労働者酷使
消費者金融 →(本当は)→ グレー金利、違法金利のカネ貸し
消費者金融 →(本当は)→ 高利貸し
街中には、表現者(政府、与党、企業、マスコミ)にとって都合の良い置き換え表現や、目眩まし表現や、カタカナ表現が溢れています。そういった表現に馴らされて本質を見失うことがあまりにも多いのです。というよりも、そのような目眩まし表現に惑わされないことが大事なのであり、隠された本質を見抜く眼を養うことが大切なのだろうと思います。
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