こんな程度の低いニュースを取り上げるの虚しいが、見過ごすわけにはゆかないだろう。宮崎県・東国原知事の「タミフル」発言はボチボチメッキが剥げたかとアイキョウだが、埼玉県・上田知事の「人殺し練習」発言と、愛知県・神田知事の「悪い遺伝子」発言は斯界プロの発言だから見過ごせない。
『知事発言の新聞記事(07.04.03中日新聞朝刊)』
柳沢厚生労働省の「生む機会」発言にも同じことが云えるのだが、発言者自身の心の底流に社会的弱者への思いやりとか優しさといった気持ちが欠けていることがあるのだろう。
もう一点は、政治家でありながら「言葉」に対する謙虚さが欠けていることであろう。推敲とか熟慮と云った言葉が死語となり、「軽いノリ」だけが横行する風潮に流されていると云えるのであろう。
言葉で政策を訴え、言論で市民をリードする政治家が、言葉に対する深く篤い想いが薄くなれば、それは自身の退廃であるだけでなく言論を基盤とする民主主義の後退でもあるのだ。その意味で東国原知事の「一方で「自由な言論の枠内」「事細かに批判され、訂正を求められるのはいかがなものか」という発言は、自身のおかれた立場への自覚の足り無さを表し言論の自由をはき違える詭弁であり、これを称して馬脚を現すというのだ。
リーダーが語る言葉というものについて「白川勝彦氏主宰・永田町徒然草:07/04/05記事」が核心を衝く具体的な記述をしている。「美しい國、日本の実現!?」という記事である。一部を引用しておく。(07.04.05追記)
近代自由主義は、人間がお互いに証明することができる言葉や事実を使いながらこの世の中に生起する諸問題を解決しようとする政治手法である。前号では小泉氏の“改革”なるものは、検証不能な言葉を羅列して政権を運営するという危険な手法であると述べた。小泉氏の事実上の後継指名を受けた安倍首相の場合はどうであろうか。
安倍氏がやりたいことは、「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的な枠組み」を取っ払らうことなのではないか。
歴史認識を欠いたリーダーは、危険である。同じように具体的で検証可能な目標を提示しないリーダーも危険である。そのようなリーダーを戴く自民党には、ハッキリとした理想や理念がないといっても過言ではない。
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