ロシアのエリツィン前大統領が亡くなり国葬が営まれた。先ほど届いた夕刊紙面ではプーチン大統領夫妻と並んでクリントン前米大統領、ブッシュ元米大統領(パパ・ブッシュ)が写っている。
二十三日に七十六歳で死去したロシアのエリツィン前大統領の国葬が二十五日、モスクワ中心部のロシア正教総本山、救世主キリスト大聖堂で厳かに営まれた。プーチン大統領、クリントン前米大統領ら約五千人が参列、旧ソ連を解体し新生ロシアを指導したエリツィン氏に最後の別れを告げた。
旧ソ連時代を通じ首都での国葬は一九八五年のチェルネンコ共産党書記長以来。またロシア正教に基づく国家の最高指導者の葬儀はロシア帝国のアレクサンドル三世以来、百十三年ぶりとなった。
国葬にはゴルバチョフ元ソ連大統領やブッシュ元米大統領、ケーラー・ドイツ大統領らが参列。世界各国の現旧指導者が参列したが、日本から斎藤泰雄駐ロシア大使が参列するにとどまり、プーチン政権下で冷え込む日露関係を象徴するかのようだ。(産経新聞)
折しも安倍総理は訪米に出発した。総理の外交感性が批判されるのか、取巻側近が愚かなのか、外務省が脳天気なのか、折角の弔問外交という機会をむざむざと逃したのである。理屈は色々と後講釈しているようだが、問題はアメリカが前・元大統領を派遣したからと云うのではない。
日本自身が隣国ロシアの前大統領の葬儀、それも国葬が営まれると云うに主体的に判断し特使を派遣できなかった外交感覚が批判されるのである。
元首相というのであれば、森氏、海部氏、細川氏、羽田氏がいる。今、ギクシャクしているというのであればこそ、弔問には訪れるべきであろう。その礼を尽くすことが次の展開を呼ぶのである。外交というものにプロトコルが付き物だとはよく判っている。でも現実の付き合いは国と国も個人と個人も同じであろう。葬儀、まして国葬であればこそ、喪主であるプーチン大統領の顔を立てるべきであろうにと思うのである。小泉前総理などが「安倍君、僕が行ってくるよ」くらいのことが云えないのだろうかと不思議なのである。
村八分という言葉がある。近所付き合いを断つという意味である。何かの制裁措置として八分までは断つけれど二分だけは断たないという意味である。二分というのは「葬式」と「火事」である。日本政府はロシア国の国葬に大使は列席させたが元首相級の特使は派遣しなかった、そういうことなのである。
何を細かいことをと、云うかもしれない、でもすべからく、こういった「日常感覚」を大事にすることが意外と重要なのである。話が飛躍するけれど、茫猿が不動産鑑定士の「センス、センサー、スピリット」と、何度も何度も言挙げするのは、実はこういう感覚なのである。
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