8/6&8/9&8/15(再々掲)

『03.08.06只管打座に掲載した記事ですが、今年は(久間前防衛相の)「原爆しょうがない」発言もあった年ですし、参議院選挙の年でもありますことから、再掲すべきものと考え少し早めに再掲します。』
 毎年々々、八月になると忘れてはならない数字が、6と9と15です。
・8月6日は、広島の原爆忌
・8月9日は、長崎の原爆忌
・8月15日は敗戦の日
 【あえて終戦記念日という言い換えや言い逃れは排します】


 今年(03.08.06)の広島原爆忌において、秋葉広島市長が読み上げた平和宣言は、イラク戦争や北朝鮮の核開発等の事象が戦後から戦前への回帰を思い起こさせると云い、世界の政治・宗教・文化・スポーツの指導者達が広島を訪れることを望むと云う。そして核兵器について「作らせず、持たせず、使わせない」という新非核三原則をテーマとして世界に訴えたいと云う。
 これに対して、挨拶にたった小泉首相は、非核三原則の堅持を云う。
「持たず、造らず、持ち込ませず」である。
 両者の表現の差を政治基盤の相違などとは云うまい。
首相は、従来からの日本の立場を云い、自ら堅持する原則を云うのであり、広島市長は唯一の被爆国としての受け身の立場を脱して、積極的に世界の核保有国或いは核開発国に対して、被爆国であるからこそ、その惨禍を訴え、世界各国はかくあるべしと訴えようと云うのであろう。
 日本が「持たず、造らず、持ち込ませず」といわば受動的に宣言して事足りる時代は終わったのであり、より積極的に「作らせず、持たせず、使わせない」と主張すべき時代にあると云うのであろう。
 共感できる平和宣言である。「あやまちは二度と繰り返しません」という宣言もいまや、「あやまちは二度と(誰にも)繰り返えさせません」と、積極的に明らかに他者に向かって発すべき時代となったのであろうと考えます。
 沖縄サミット(2000.07.23)が開催されて間がないが、8年に一度巡ってくるサミット開催国としては、次回は広島か長崎にて開催してほしいものである。 世界の政治指導者とジャーナリストを被爆地に招いて、原爆の実相を体感してもらい世界に発信してもらいたいものである。
 世界平和や核廃絶について、百万言を費やすよりも、広島か長崎を追体験することに、優るものはなかろうと思うからである。
何よりも、日本が世界に発信できる唯一かつ有力な政治的文化的メッセージは「サミット広島(長崎)開催」であろうと考えるからである。
 やがて、58回目の8月15日が巡ってくる。(03.08.06記述)
終戦記念日と言い換えて、実相を糊塗してきた五十有余年が、今の日本を造っているのだと思います。勿論のこと終戦と言い換えてきたおかげで戦の結果を曖昧にしてきたという功はあるわけで、敗戦と言いつなげてきたらリベンジを云う輩を増やしたかもしれない。
 でもやはり、戦の意味と実態を正しく見定めることが大事だと考えるから、8/15は終戦の日ではなく無条件降伏の日なのであり、静かにそして自らの内に向かって、戦死者並びに戦没者を弔い、同時に何故にそこに至ったかを正しく謙虚に語り継ぐべき日なのだ思います。
 これらの文脈で、茫猿は日本を、勇ましく「ニッポン」と読むのは、好きになれません。日頃は「ニホン」と穏やかに読みたいのです。
唯一スポーツ応援の「ニッポン、チャチャチャ」だけは好意的ですが。
・・・・・・追伸です・・・・・・
8/6、9、15と同じ意味において忘れてならない日は
6/23・・沖縄慰霊の日
3/10・・東京大空襲の日 など、幾つかの日があります。
・・・・・・追々伸です・・・・・・
「一本の鉛筆」という歌をご存じでしょうか、相当の美空ひばりファンでもあまり知られていないことのようですが、あの「ひばりさん」が、亡くなる前年に広島の平和音楽祭で唄ったという歌です。

一本の鉛筆」は1974年、第1回広島平和音楽祭で、実行委員長を務めた古賀政男のプロデュースにより美空ひばりのために書き下ろされた。美空ひばりは死の前年、1988年の第15回広島平和音楽祭にも病をおして出演し、数曲唄った冒頭に再度この曲を唄ったという。

・・・・・・追々伸です・・・・・・
 昨日(07.07.18)の中日新聞夕刊(東京新聞夕刊)社会時評に高村薫さんが「政治の言葉の習い性」と題して小考を掲載している。高村氏は彼女一流の冷徹な鋭さと皮肉を交えて政治家の言葉の軽さを切って捨てている。
「冒頭、彼女はこう語り始める。」

 メデイアと通信機器の発達がつくりだすのは、言葉の過剰と過小の両方である。一人の人間が受け取るには多すぎる情報が日々発信され、少しでも多く受け取るために個々の情報量が少なくなるという循環は、いまや私たちの脳をそのように順応させ、言葉の使い方や受け取り方を変えつつある。

 そして、こう結ぶのである。

 全文に目を通せば、「しょうがない」云々は口が滑ったのではなく、呆れるほどの見識の貧しさと、言葉の惰性から出たものだということが分かる。ここでは、言葉はもはや意味の表明ではなく、聞き流すことを前提とした冗長なBGMである。今日は、こうして言葉がある場所と時間を埋めるためだけに浪費される時代である。

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