向暑的読書または読書的避暑である。グレート・ギャツビー、ノルウェイの森、ロング・グッドバイ、海辺のカフカ と聞いてその連鎖が直ぐに判る『鄙からの発信』読者は優れてハルキストである。
実はNHK週刊ブックレビュー:07.06.24放送の回に、前に紹介した「D列車でゆこう」を知ったのであるが、同時に「ロング・グッドバイ」と瀬戸内寂聴の「秘花」も知ったのである。07.07.21付記事「桂東雑記」もこの週刊ブックレビュー07/08放送の回で知ったのである。このところ未知の書籍との遭遇は「NHK週刊ブックレビュー」頼りであるが、書店の平積みから探すのも、新聞や週刊誌の書評欄経由も悪くはないが、多方面の読み人が肉声で紹介するTV書評も紹介者の想いが立体的に伝わってきて、これはこれで優れものである。
さて、瀬戸内寂聴の「秘花」は、佐渡に流された後、最晩年の世阿弥をテーマとする小説であったが、寂聴氏ご本人の紹介につられて購入し読んでみたが、期待ほどではなかった。寂聴氏の思い入れが勝ちすぎてという感じでなのある。
そこで、ロング・グッドバイなのである。
・書名:ロング・グッドバイ、 著者 レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)
・出版社:早川書房 書評する人:伊佐山ひろ子 (女優)
「本の内容(週刊ブックレビューより)」
ハードボイルド小説の名作が村上春樹による新たな翻訳で登場しました。
「私は感情に流されずに生きるように努めている。しかしその男には、私の心の琴線に触れる何かがあった。それがどんなものなのかはよくわからなかった。」(本文より)
私立探偵フィリップ・マーロウは、億万長者の娘と結婚した男、テリー・レノックスとふとしたきっかけで知り合い、友人となった。しかし、彼の人生は多くの謎に包まれていた。
「チャンドラーの作品から多くのものごとを学んだ」と語る翻訳者の語り口を堪能出来る一冊です。
そうなのである。最近カフカ賞を受賞しノーベル文学賞も噂されているあの村上春樹氏が訳するレイモンド・チャンドラー著・ロング・グッドバイなのである。フィリップ・マーロウを日本語で表現するには最適であろうと評される訳者による「ロング・グッドバイ」なのである。実は茫猿は村上春樹ものを読んだことがなかった。意識して避けていたわけではないが、彼が世に出た頃は既に文学少年ではなかったし、僅かな読書量はもっぱら藤沢周平や池波正太郎に耽溺していたせいでもある。
そこへ、レイモンド・チャンドラー&村上春樹である。妙に惹かれるものがあり、それは多分に伊佐山ひろ子さんの口説の巧さも大きかっただろうと思うのだけれど、彼の書き下ろしも読もうという気になったのである。そこで「ノルウエーの森」と「海辺のカフカ」なのである。「グレート・ギャツビー」は、茫猿が日頃気にかけているBlogのTopページが次のような惹句を掲げていることによるのである。
こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように、力の限り漕ぎ進んでゆく。
– “The Great Gatsby”, F. Scott Fitzgerald
この「グレート・ギャツビー」も村上春樹が訳して、06.11.10に初版を発行している。お判りだろうか、冒頭の問い掛けの答えは村上春樹であり、その連鎖が直ぐに判る人はまた相当のハルキストであろうということである。もう一つ腑に落ちたことがある。日本人作家のなかで村上春樹が、今や海外で翻訳され一番読まれているということが理解できるのである。主語述語形容詞がはっきりしているから訳しやすいのである、日本的表現が無いわけではないが助詞から助詞へつないだり、余情から余情へというような語法は少ないのである。
【ロング・グッドバイ】
「訳者村上春樹氏の訳者あとがきより」
チャンドラーの文章はきわめて個人的なものであり、オリジナルなものであり、ほかの誰にも真似することのできない種類のものだった。彼の存在は、ジャズにおけるチャーリー・パーカーの存在に似たところがあるかもしれない。その語法は今では貴重なパブリック・ドメイン(文化的共有資産)となっている。
有名な、あまりにも有名なフィリップ・マーロウの台詞なのだ。
” If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I woudn’t deserve to be alive.”
「訳者村上春樹氏のあとがきより」
僕が「グレート・ギャツビー」の翻訳を六十歳になるまで待とうと決めたのにはいくつかの理由がある。ひとつはそれくらいの年齢に達したら、「グレート・ギャツビー」にとりかかれるくらいには翻訳の腕が上達しているのではないかと予測(期待)したからである。もう一つには、「グレート・ギャツビー」には既に幾つかの訳書があり、僕が慌てて翻訳を世に問う必要もあるまいと考えていたからだ。少なくとも三十代の僕にとっては、六十代というのは途方もなく遠いところにある世界のように思えたのだ。
翻訳というものは、基本的には親切心がものを言う作業だと僕は思っている。意味が合っていればそれでいいというものではない。文章のイメージが明瞭に伝わらないことには、そこにこめられた作者の思いは消えて失われてしまう。
「訳者が推奨する冒頭の一節である。」
僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。
「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父とのあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。
「訳者が推奨する最後の一節である。」
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように。絶え間なく過去へと押し流されながらも。
ところで、「ロング・グッドバイ」の主人公はマーロウなのだが、陰の主人公ともいうべき役回りにテリー・レノックスがいる。テリーはイケメンで優雅で金持ちで深い謎を抱えている男である。そのままグレート・ギャツビーそのものなのである。チャンドラーとフィッツジェラルドの二作品を読み通して初めて理解したのであるが、テリー・レノックスはグレート・ギャツビーをモデルにしているといっても佳いくらいである。(これ以上はネタバラシになるのでここで止めておきます。)
【ノルウェイの森】
「ノルウェイの森」のなかで印象に残った一節である。
日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯ものを屋上に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れが中庭をぐるぐるととびまわり、近所の子供たちが網を持ってそれを追い回していた。風はなく、日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとんどなく、大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響きわたっていた。
【海辺のカフカ】
まだ向暑的読書中です。ようやくに物語が一つになりかけています。途中のそのなかで気になった一節を紹介します。
シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕(大島:20?歳:血友病)だって最初に聞いたときは退屈だった。君の歳(田村カフカ:15歳)ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はその二つを区別することができない。」
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