海辺のカフカ

 8/1に読み始めた「海辺のカフカ」上下二巻をようやくに読み終えた。読み始める前は冷夏だったこの夏は、旧盆を前に猛暑にスイッチオンしている。それでもあと数日で軒端の風に秋を感じるようになるだろう。この十日ほどの間に起きたことは、私のそんなに短くもない人生のなかでも確かな記憶に残るものとなる確信がある。


海辺のカフカ

 
『海辺のカフカ:新潮社版上巻193頁より』

 シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕(大島:20?歳:血友病)だって最初に聞いたときは退屈だった。君の歳(田村カフカ:15歳)ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はその二つを区別することができない。」

『海辺のカフカ:新潮社版下巻174頁より』

フルニエの流麗で気品のあるチェロに耳を傾けながら、青年は子どもの頃のことを思い出した。毎日近所の河に行って魚や泥鰌を釣っていた頃のことを。あの頃は何も考えなくてよかった、彼は思った。ただそのまんま生きていればよかったんだ。生きている限り、俺はなにものかだった。自然にそうなっていたんだ。でもいつのまにかそうではなくなってしまった。生きることによって、俺はなにものでもなくなってしまった。

 15歳の長身で寡黙な少年「田村カフカ」は、中野区からあてのない旅に出る。遍路道に誘われるように四国高松に着き、さらに高知の山塊の奥に至る。同じ頃、山梨の森のなかで少年期にある事件に遭遇した「ナカタさん(男性:60代半ば)」は、中野区に2000匹の魚が降ると予告しながら遍路道を辿り始める。まったく別々のオムニバスが、読み続けるうちにしだいに寄り添ってくる感覚はあるのだが、それがどのようにリンクしてゆくのか想像できないうちに物語は終焉にちかづいてゆく。世界で一番タフな15歳の少年は予定調和のごとく「比重のある時間」の流れに身を委ねようとする。
『海辺のカフカ:新潮社版下巻175頁より』

人ってのは生きるために生まれてくるんじゃないか。それなのに生きれば生きるほど俺は中身を失っていって、ただの空っぽの人間になったみたいだ。そしてこの先さらに生きれば生きるほど、俺はますます空っぽで無価値な人間になってゆくのかもしれない。そいつは間違ったことだ。そんな変な話はない。その流れをどこかで変えることはできるのだろうか。

 遍路道行脚を思わせ、人生の同行二人を思わせ、弟のことを思わせ、珍しく行きつ戻りつしながら読み終えました。読み終えた今、この夏の読書目標はやはり「カフカ」であろうし、「変身」であろうと思わされている。
 『海辺のカフカについて :村上春樹』
 『サロン・ド・カフカ 「海辺のカフカ」めぐり』
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 『カフカ紹介』
 『松岡正剛の千夜千冊『城』フランツ・カフカ』

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