年の初めはさだまさし

 紅白は半分寝ながら見ていた。笑福亭鶴瓶のハイテンションが妙に紅白とマッチしていた。紅白は白組が勝って、判定結果を東京タワーのライトアップが赤か白かで見せたのだが、東京タワー・ライトアップを番組のなかで使用するというのも大掛かりな話だ。今は引き続いて「年の初めはさだまさし」を見ながらこれを書いている。


 「年の初めはさだまさし」
 さだまさしの絶妙トークを、ただ何となく、少しけだるくTV番組にしている。何となくラジオのトーク番組をTV生中継してる雰囲気である。なかで、うならされた話をBlogネタにする。ライブ・Blogという訳である。以下は全てさだまさしのトークからである。
『心の闇』
 よく言われる言葉に「心の闇」という言葉がある。事件の犯人などの心の闇は深いとか、心の闇を覗くなどという使われ方をされる。しかし、人は皆、心の闇を持っている。持ってない人に会ったことがないと「さだまさし」は言う。誰もが持っている「心の闇」と、各々がどう向き合うかである。心の闇と格闘するか、押さえるか、開いてゆくか、光を当てるか、和らげてゆくか、各人の課題であろう。

 (心の闇は誰もが持つ、それを如何に飼い慣らすかと云うことなのであろう。心の闇を持たない人など、陰影のない白い光だらけの、ただのノッペラボーだ。)

『ケバだつ心』
 東京などの都会では、社会変化の動きが速く、何かと心がケバだつ(毛羽立つ)ことが多い。しかし、都会では変化の流れのなかでケバだつ心も消化されてゆくが、そのケバだちをTVを通じて配られる地方では、ケバだちがオリのように沈殿する。そして何かのきっかけでオリが吹き出す。佐世保の銃乱射事件などはそんな反映だと思う。アメリカの銃乱射事件もニューヨークやロスで起きずに地方都市で起きている。「朝まで生TV」をたまに見ると、いい大人が議論ではなく、罵りあいをすることが多い。有識者として出演しているのだから、「先ずは聞こうよ。」という態度がなぜ取れないのだろうかと思う。

 (確かにあれは討論番組ではない。ただの言いっぱなし番組だし、声や態度の大きい者勝ち番組である。人の話を遮って、品無く大声でわめき続けた方が勝ちみたいな番組だ。あのような番組を見続けていれば、討論とは他者を遮ったり、発言声量競争番組だと子供達が誤解するだろう。罪な話だ。)

『NHKの視聴率』
 NHKは視聴率に拘ることを止めたらいい。NHKしかできない番組を視聴率競争など気にせずに制作すればよい。紅白歌合戦だって、都会の視聴率は下落しているが、地方では高視聴率である。それに若者に媚びるような番組作りをせずに、年配者をターゲットにした「紅白歌合戦」でよいのでないか。

 (さだまさしは出演者だし、司会の鶴瓶と手が合うから、多少間引く必要があるだろうが、頷ける。)

『譲り合い』
 電車の席を少しずつ詰めて一人分の席をつくるような、譲り合いを見なくなって久しい。皆が少しずつ譲る合うことで、場は和やかになる。

 (ワーキングシェアにもつながる話だ。ただし世慣れ風にいえば、理屈はそうだが現実は総論賛成各論反対なのである。でも、だからこそ、譲り合いを言い続けることが大事なのであろう。)

 ここまで、記したところで、番組は終わった。さ、寝よう。

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