塾なるもの

 塾・鄙からの発信と名付けた由来については、私塾であること、学ぶ場を提供するものであること、という意味を含ませていたが、最近求めた書籍に我が意を得る記述を認めたので引用転載する。


 求めた書籍は、中村彰彦著「落花は枝に還らずとも:会津藩士・秋月悌次郎」(上下巻:中公文庫)である。この歴史小説は第24回新田次郎文学賞を受賞している。小説については読み始めたばかりであり、面白そうではあるが、読後感を書くまでではない。しかし、同書巻末に記される解説に興味深いことが記されているのである。解説者は京大名誉教授竹内洋である。解説を抜粋して引用する。

 主人公秋月悌次郎がかよった昌平坂学問所の授業風景についてはこうかかれている。授業はほとんどなく、寮生たちの「自学自習」がほとんどだった、と。当時の塾事情についての正確な叙述である。
 幕末から明治はじめの多くの塾では、「会読」や「自学自習」がほとんどだった。福澤諭吉も適塾での教育を「自身自力の研究」だった、としている。(中略)つぎの世代の人格への働きかけが、教えるという行為によってではなく、なにものかを「学ぶ」という学習者の行為によってなりたつと考えてきたということである。

 茫猿の意図するところも、まさにこれである。何かを教えようと云うことではなく、塾という場を用意することにより、自ら、そして互いに学び合う場が作られればよいとを考えるのである。何よりも、世代を超えて経験の多寡を超えて、幾つかのことがらを論じてほしいと願うのである。でき得れば世慣れた議論などではなく、青臭い書生論を展開して欲しいと願うのである。
 昨日の、士協会新年会ではこんな話も出たのである。「現役を引退された先輩方にも出席して頂いて、鑑定評価草創期の往事のできごとを語って頂きたいものであるし、そのような機会を是非とも用意して欲しい。」とのことであった。茫猿もそのような機会を年内に必ず設けたいと願うのである。いまのところ、茫猿のこのような思いが正しく理解されているようにはみえないけれど、それはこの催し自体が初めての試みであり、一時に理解を得るのは無理なことであろうと思われる。それでも、細々ながらも塾を続けてゆけば、いつかは少なからず理解されるのではなかろうかと願うものである。
 それにつけても、昨夜の士協会新年会の出席者は会員数四拾数名の内半数弱という寂しさであった。臨時総会が開催され、相評価格検討会が併催されたにも関わらず、半数以上は総会に出ることもなく、新年会を待つこともなく帰ってしまったのである。多忙であるとか、宴席を好まないとか、様々な理由は求められるであろうが、会員だけの自主的催しになると極端に出席者が減少する昨今の事態は決して好ましいことではない。
 その理由を個人主義や、新自由主義や、功利的合理主義や、ミーイズムとかに求めるのは簡単であるが、地価公示をはじめとする幾つかの協働作業を通年的にこなしている地方の鑑定評価業界の実情を考えれば、普段に意思疎通を図ってゆくことが茫猿にはとても大切に思えるのである。だが、宴会欠席者にとっては、ビジネス以外の交歓の場は、ただただ煩わしいだけのものであろうか。

関連の記事


カテゴリー: 塾・鄙からの発信 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください