使い古したフレーズだが、早いもので一月も今日で終わりである。
一月の終わりから二月初めにかけては厳寒の季節である。野も山も冬枯れ一色なのである。でも不思議と気分は悪くない、明るいのである。それは陽射しが一日々々と長くなり明るくなるからであろうし、木の芽も日毎に膨らみを増してゆくからであろう。まさに冬来たりなば春遠からじである。
ところで、塾『鄙からの発信』開塾に際して、『鄙からの発信』の由来を記録しておこうと思う。『鄙からの発信』という文言を最初に使用したのは1986年9月のことと記憶するが、残念ながら記録が残されていない。当時の鑑定協会中部支部主催「中部不動産鑑定会議」を初めて名古屋市以外で開催することとなり、これも当時の岐阜県部会が開催県を引き受け、県部会設立十周年記念行事と併催したおりのターゲットテーマではなかったかと朧気に記憶する。ちなみに、このおりの岐阜県部会長は茫猿が務めていた。
次いで、岐阜県部会が社団法人化することとなり、94/04にその設立記念式典が開催された。このおりのターゲットテーマが『鄙からの発信』である。設立時初代会長は故田辺寛氏である。この時の記念誌の表紙は、当時の岐阜県鑑定業界の主流PCであったマッキントッッシュの起動時TOP画面を松原会員が図案化している。茫猿はこの時は実行副委員長を務めていた。
【94/04ファイルを開く】
次に、『鄙からの発信』が使用されたのは、99/04の鑑定協会会長選挙のおりに茫猿の選挙パンフのテーマに使ったのである。現在のBlog『鄙からの発信』の前身であるWeb Site『鄙からの発信』は、この時にスタートしている。
【99/04ファイルを開く】
最近の公式行事に使用されたのは04/04に開催された岐阜県部会設立25周年・(社)岐阜県不動産鑑定士協会設立十周年記念式典のサブテーマとしてである。茫猿はこの式典行事の実行委員長を務めていた。
【04/04ファイルを開く】
Blog『鄙からの発信』も、塾・『鄙からの発信』も、ささやかな試みである。でも、それなりに「鄙」は定着してきたと自賛するし、続けることにも意味有りと自惚れる井蛙なのである。先日、十年間1300本のエントリーを記録したのだが、次の十年2000本は無理としても、少しずつ積み重ねたいと思っている。昨年12/15以来、私的な事情からほぼ連日のように新規エントリーをアップしたが、来月からは肩の力を抜いてゆくつもりである。
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