仰挫 

 農薬入りギョーザ事件はどうやら製造工程での過失的混入ではなく、いずれかの段階での確信犯による意図的混入による疑いが濃くなったようである。


 ところで、この事件は多くの事柄を教えてくれているように思えるのである。
1.今回が最初ではない。
 中国産食品に限らず輸入食品の危険性あるいは非衛生性は以前からニュースになっていたが、ギョーザに関してはこんな事件があった。 「韓国製生ゴミギョーザ事件」(2004/06)
 韓国の食品加工業者が本来生ゴミとして処理されるはずの食材を加工して、ギョーザの具として販売し、その一部が日本や米国に輸出されていたという事件である。この件に関してはH16/6/10付け厚生労働省・食品安全部監視安全課発文書がある。さらに同時期に輸入食品に対する検査命令関連文書もある。
2.便利さに潜む罠
 本来、家庭料理であり、肉や野菜などの具材を調理して作るはずの餃子を加工済み冷凍食品として購入することには、罠が潜んでいると考えるべきである。どういうことかと云えば、加工済み冷凍食品を購入する消費者(学校給食事業者やファミリーレストラン系も含めて)は、便利さを購入しているのである。
 肉を挽肉加工し、数種類の野菜を刻み、さらに調理する手間を省くという便利さを購入したわけである。ということは、家庭で調理するよりは多少高く付いても不思議はないのである。学校給食やファミレス系ではやや問題が異なり、大量に加工生産する場においては、加工済み食品を購入するよりは自ら加工した方が安価に仕上がるのが普通である。つまり、本来的な価格形成から云えば家庭用販売品は自家調理より高く付き、業務用販売品は大量加工により自社調理製品が安く付くべきなのである。(いずれにしても加工済み輸入製品は高いのが当然である。)
3.アンフェアトレード
 ところが実態は逆なのであり家庭でも業務用でも輸入品の方が安いのである。そこに存在するのは、餃子という包み工程を人手に頼る食品に占める人件費を安く購入しようと云うことなのではなかろうか。中国からの輸入品が製造工程に優れて安いのではなく、安い労働力を雇用するから製品価格も安いのである。さらに、ひたすら餃子を包むという作業を低賃金でこなさなければならない中国人労働者の「悲嘆」の上に成り立っていると云えよう。当然のことながら、包み工程以外の全行程の労賃、原材料価格(労賃を含めて)もアンフェアなほどに安いのではなかろうか。もっと困ったことは、中国製は安いという固定観念が先行していることであり、「安い」ことの代償として支払われるべき安全、衛生への懸念という対価を等閑視しているという自覚に乏しいことである。
4.ミンチ肉
 餃子の主材料であるミンチ肉については、昨年、「ミートホープ事件」という皮肉な社名の会社による偽装事件があったばかりである。ミンチ肉についても我々は誤解しているのではなかろうか。本来のミンチ肉は、買い求めた肉を家庭で挽肉加工してつくるか、肉屋の店頭で指定した肉を挽肉加工してもらうものである。最初からミンチ加工してトレーに盛られたミンチ肉であれば、元の肉部位が表示されていなければならない。例えば「肩ロース切り落とし1/2、バラ屑肉1/2」といった具合である。しかし、店頭表示は「牛ミンチ」だけである。
 ここでも、本来は手間がかかったり、目減りしたりするはずのミンチ肉が、ただ単に安い肉となり、安いから出処部位は問わない、問う迄もない商品へと変わっているのである。 昔なじみのトンカツ屋で聞いた話であるが、本来ミンチ肉という肉はないそうで、どこそこを何gミンチに挽いてというのが正しい注文だそうである。トレーに盛ってあるミンチ肉(大半は屑肉)は切り落としとして販売するか、スープや煮込み用とすべきと云うことだった。このあたりについては、2ちゃんねるで真偽取り混ぜてコメントされている。
5.何が云いたいのか
 いつからか、我々は安くて便利で手軽な商品を求めることにキュウキュウとするようになってしまったのである。先ず安いこと、二も三も無くて四も安いことを求めるのである。
「食材は十里四方」(五里四方だったかもしれない)
 食材は十里四方つまり40km以内を旨とすべしと云う諺である。最近流行っている別の表現では「地産地消」ということである。料理は可能な限り材料から始めるということでもある。 こんなことを云えば、忙しいから調理の時間が無いという声が聞こえてくる。
6.必要な対価を負担する
 安かろう安かろうだけに走るから、こんなことになる。必要な対価を支払うべきなのである。食の安全や食の便利さは高いものという認識を新たにすべきなのである。同時に正当な対価を支払えば、国産食材も市場性を回復するであろうし、輸入食材も安全性に応えてくれるであろう。早い段階で正しい対応しておかないと、輸入米国産牛肉と同じ問題が発生する懸念がある。安全を主張するつもりが、不当な輸入制限行為と受け取られかねないという懸念である。別の表現をすれば、食の限りない工業化について、我々は野放しでよいのかという問い掛けである。食材の生産、流通から販売、購入、調理そして食する場所、食事そのものについてまで、効率化や単一目的化(ただ空腹を満たすという)を追求するにキュウキュウとしてはいないかということである。政府自民党が云う、食育などという愚かなことを云うのではない、食は人生の楽しみのうち最たるものではなかったかということである。誰と何をいつ、どのように食するかということを、今一度問い直すべきではなかろうか。
7.語られないこと
 一連の事件で語られないというか、小さく扱われているのは、輸入販売業者責任と消費者保護行政責任である。「中国農薬餃子」という新聞見出しやTVコメントが氾濫しているが、中国の業者が生産し輸出した商品を購入したのではない。商品包装を見れば一目瞭然であるが、日本企業が生産委託し国内に持ち込んだものである。自社ブランド包装を行っているからパッケージ裏側の小さな原産国表示を見なければ国産品と間違えても仕方ないというよりも、限りなく国産類似表示を行っているのである。委託生産者責任、輸入者責任、販売者責任が問われるはずである。
 消費者保護行政については、語るまでもないだろう。薬害エイズや薬害肝炎問題の延長線上にあるといってよかろう。消費者を見ずに業者しか見ていないといえよう。なぜ業者しか見ないのかと云えば、そこにも社団法人や財団法人や特定行政法人といった霞ヶ関と虎ノ門癒着(不可分)構造が指摘できるのであろうが、それは稿を改める。
 

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