負けること、負け続けること

 過日、某役所のNO.2とお話しする機会がありました。 互いの加齢に話題が及んで彼が曰く、「私が直属の部下に日頃言っているのは、若い者には任せ切るか、細々と口出しするかどちらかにせよということです。中途半端が一番良くない。 任せたと言いながら時々口を出す。これが、一番良くない。 上司というものは、部下に任せて見守って、責任をとればよいのです。」と申されました。 もうその役所を卒業間近ということもあるのでしょうが、見事なお覚悟と伺いました。 一番ツライのは任せておいて、聞こえてくる不評や批判に、ついつい口出ししたくなる心を抑えきることであろうと思います。


 2008年も残すところ僅かになりました。来年は茫猿もいよいよ65歳になります。 今年はかねてから準備してきた事務所の法人から個人事務所への変更を終えましたが、来年はこの個人事務所を自宅に移転する準備を進める年となるでしょう。 こうして一つ一つ社会との接点を少なくしてゆくのですが、少なくする接点は40年以上付き合ってきた鑑定業界との接点であり、これからは新しい社会との接点を増やしてゆく日々が待っているのであろうと思います。
 日々、伝えられるニュースは暗いものばかりです。 地元ではトヨタ関連、パナソニック関連、エプソン関連、イビデン関連、いずれも派遣雇用者や期間雇用者の削減あるいは全廃という報道や工場閉鎖という記事が溢れています。次は正規雇用者のリストラが着手されるのかもしれません。 そんななかでもパナソニックは5600億円を投じて三洋電機を買収するのである。
 日本自工会の発表では09年度新車国内販売見通しは31年ぶりに500万台割れという。TVニュースでも大きく報じている。 31年ぶりとは大変なことだと思って、今朝の新聞をよくよく見れば、対前年比4.9%減少の見通しとのことである。 大型店舗販売額の対前年比減少率と比較すればやや大きいが驚くほどのことではない。 (名古屋の百貨店11月売上高は対前年同月比15%減) ニュースというものの報じ方しだいで受け取る印象がずいぶん違うものだと思わされる。 
 昨日の中日新聞8面には「沈滞オフィスビル」という見出しで、名古屋市内のオフィスビル空室率が4年ぶりに8.2%に達したと伝えています。 2006年当時は5%台まで下がったものの、その後の新築ラッシュでジリジリと空室率が上昇し、成約賃料も低下しつつあると伝えます。 2009年がどんな年になるのか皆目検討もつきませんが、そんな不安感が横溢するなかで、注目した論考は、12/16付中日新聞夕刊・社会時評「日本の企業文化を見直すとき」(高村薫)と、12/17付け中日新聞朝刊・時のおもり「生命無視の豊かさを問う」(中村桂子)です。

(高村薫氏(作家)はこう述べます。)
『不況のたびごとに当然のことのように繰り返される雇用調整という名の解雇を、今回も働く側は黙って受け入れるのだろうか。 人が働いて生きることの意味が、企業の都合で否定されたり翻弄されたりすることにどの程度の社会的合理性があるものだろうか。
 派遣労働が製造業に解禁されて以降、非正規雇用者を増やして業績を回復してきた業態ほど、この不況に悲鳴を上げている現実がある。
 今求められるのは、正規と非正規の雇用格差を縮めることであり、個別の企業ごとに各種手当てや年功序列というかたちで社員の一生涯を保証してきた日本の企業文化の見直しである。 長年企業が担ってきた社会福祉部分を国が担うのである。 そうすれば、労働市場の流動性が高まり、同一労働・同一賃金の原則も初めて現実のものとなる。』

(中村桂子氏(JT生命誌研究館館長)はこう述べる。)
『まず金融経済があり、それを支える科学技術の開発を行うという社会では、生命は悲鳴を上げるしかない。 まず生きることを大事にして、生命を基本に置き、そこから科学技術へ、経済へという流れを作るという価値観に切り替える必要がある。 金融危機以降、急速に「農」への関心が高まっているが、ここでまた空虚な経済を振り回すのでなく、価値観の転換につなげてほしい。』

 お二人の表現は異なりますが、述べていることに共通の認識があると考えます。それは、社会における人というもの、生命というものの根元的認識であり、優先順位です。 経済や金融のために人があるのではなく、人の幸せのために金融も経済もあるということです。 真っ先かけて派遣切りをする、外国人雇用者をリストラするという企業姿勢は、企業の社会的存在意義を根本から問い直させることであり、当該企業は弱い者いじめをしているに過ぎないのだと云うことに気づかなければなりません。 マスコミや政治の使命というほどのこともなく役割として、今こそそのような役割が一番求められていると考えます。 
 改めて定額給付金という上滑りな人気取り政策の愚かさを思います。 過疎の村では全く違う使い道がありますし、二兆円あれば緊急雇用対策も困窮者歳末支援対策も血の通った暖かいものとなるでしょう。 高額所得者は遠慮して下さいなどと言う必要もないし、まだまだ余裕のある正規雇用者とその家族も、社会弱者への支援対策なら理解が得られるでしょう。
 「負けること、負け続けること」をまた考えます。
茫猿の人生の師匠とも云える福井達雨先生、お目にかかったことはないが著述とその行動を通じて尊敬する久野収氏、このお二人が共通して述べているのは、「負けいくさにかける。」であり、「負け続けることに意味がある。」です。
 福井達雨先生はこうも言われます。
『勝つこと、強くなることばかりを追い求めることは、負けた側弱い側を切り捨てることになります。 勝者がいれば敗者もいるのであり、一位がいるということは二位も三位もいるのです。 勝者が敗者について、強いことも弱いことも素敵なのだと、相手を思いやる優しい心を持つことが大切なのです。』
久野収先生はこう言われます。
『来る日来る日を今日限りとして生き尽くせ。 神は細部に宿る。 少しでも理想に向かうことが我々の勝利であり、どんな敗北の中からも民主主義完成の契機がある。 どんなに敗北を重ねても負けない自分がここにいる。それが人間の勝利であり、それ以外の勝利を考えるようになると組織や運動はもちろん、人間の堕落が始まる。』

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