飛鳥・石舞台

 空梅雨に葉を巻き始めていた庭の木々も、昨夜からの雨で一息ついているようです。 昨夜遅く21時頃でしたか、玄関扉を叩く音がするので、何事かと思えば長男夫婦からの「父の日進物」の配達でした。 6/21必着だから間に合わせようと夜遅くに配送されたのでしょう、夜更けての配達、ご苦労なことです。 今朝は通販で注文しておいた「春樹の1Q84-book1」が、ようやくに届きました。 book2は未だです。


 先週末に梅小路機関庫を訪れた茫猿は、その足で奈良へ向かい、かねてから念願の国営飛鳥歴史公園を訪れました。 近鉄奈良線から吉野線に乗り継いで、飛鳥駅で下車して明日香村を廻ったのですが、幾つかの旧跡を巡るによい方法はと考えたのですが、バス便は一時間に一本程度でとても非効率、タクシーをチャーターするのは贅沢だし、細い野道は入れません。 最上の選択はレンタルサイクルだと決めたのですが、これはこれで大変でした。
 
 明日香村は奈良県のほぼ中央部、吉野につづく山並みの北側山麓に位置しますから、結構な起伏があるのです。 自転車ですから降りは楽ですが、楽あれば苦ありで昇りの坂道が大変でした。 夏至に近い初夏の陽射しのした、フウフウいいながら汗をかきかき飛鳥旧跡巡りの一日でした。
 思い出すままに行程を辿ってみますと、飛鳥駅前で自転車をレンタルして出発、先ずは欽明天皇陵、吉備姫王墓そして猿石、坂道を昇って鬼の雪隠、亀石、聖徳太子誕生の地・橘寺、川原寺跡、飛鳥大仏と飛鳥寺、酒船石遺跡、岡寺にも参ろうとしたのですがあまりの急坂にあきらめて、明日香村役場付近の村並みを巡ってから石舞台へ、高松塚古墳、天武・持統天皇陵を拝見して飛鳥駅に戻ったのです。 走行延長距離は判りませんが、パンフレットなどで概算すると10kmくらいでしょうか、アップダウンがありますから、実感距離は15kmくらいに感じました。
 明日香村は鄙の堂守が訪れるにはふさわしい佳いところです。 それに春秋の観光シーズンを外れていますから人並みも少なく、どこもゆっくりと静に拝観できました。 水を張った田圃、それに映える白壁・入母屋造りの農家、そのあいだに点在する旧跡、古墳の数々、来年は遷都1300年祭の奈良だそうですが、平城京に先立つ藤原京の旧跡は奈良・平城京に較べて、京都・平安京には較べるまでもなく落ち着いた佇まいがとても好ましい鄙の風景でした。
先ずはあまりにも有名な石舞台から、この写真では丘に石組みが見えるだけですが。
 
 石組みの裾を廻ると地下の棺室への入り口があります。
 
 棺室のなかは想像以上に広く高い石造の部屋でした。 ちょうど居合わせたお二人に、物差し代わりに写って頂きましたから、広さと石の大きさが実感できると思います。
 
 石舞台は蘇我馬子の墓と伝えられますが、石室を覆っていた盛り土が流され荒れていたところを、堀や張り石も復元してありました。 古代に巨石を組み上げた日本人も凄いものだと思わされます。 方形の盛り土の頂きに石舞台が小さく見えます。
 
 飛鳥巡りをはじめて間もなく見た亀石です。 なにやら愛嬌ある亀石の横に置いてあるのは、この日の旅程に付き合ってくれた愛車です。
 
 その名も「鬼の厠」、実はこれも石棺の一つで、行けなかったのですが丘の上にある鬼の俎(マナイタ)と対になるのだそうです。 この辺りの上り下りは自転車を押して歩きました。
 
 酒船石遺跡の亀形石です。 何のために造られたのか今もって判らないそうです。
 
 日本最古の大仏と云われる飛鳥仏ですが、何度も火災にあって修復を重ねていて、往事のものではないそうです。 でも場所は移動していなくて、やや左にお顔を向けた姿は修復の時の歪みなのか、奈良大仏に先立って創建された飛鳥大仏があったということだけで、飛鳥の奥の深さを感じます。
 
 飛鳥仏が鎮座する飛鳥寺は農村の田圃のなかにあります。
 
 明日香村の風景。 夕暮れどきなど佳い景色だろうと思われます。
 
 明日香村役場付近の家並み。
 
 高松塚古墳は保存修復のために壁画石室が掘り出されていて、今はこんな様子です。 それでも隣接する壁画館では復元模写した壁画や、復元した石棺を見ることができます。
 
 高松塚古墳の近く、天武持統天皇陵。
 
 定番ですが、猿沢の池に影を落とす興福寺五重塔。
 
 なにやら昔に堂守が学んだ小学校の玄関を思い出させる奈良ホテル。もちろん豪華さは較べものになりませんが。 このホテルは今や数少ない木造ホテルで、とても落ち着いた佳い雰囲気です。 特に鹿の姿も時々見られる「ザ・バー」などは秀逸です。
 
 奈良ホテルの周辺は、古い街並みを残す通称「奈良町」ですが、幾つかの軒先には厄除けの「身代わり申」が下げられています。 奈良町は一帯の通称で、元興寺跡にできあがった古い街並みであり、奈良町都市景観形成地区に指定されています。 庚申堂、築地之内町、肘塚町、京終町など判読できそうもない町名が連なっています。 町筋も4m路が2mになってまた3mになったり、曲がりくねった角道や行き止まり路地も多くて、地図片手でなければ迷子になりそうです。
 
 これもかねてから近鉄線の車窓から眺めるたびに一度は訪れたかった、平城宮発掘復元の朱雀門です。朱雀門の大きさ、朱雀大路の広さ、復元工事中の大極殿などをながめますと往事の平城京が偲ばれます。 朱雀大路から大極殿前広場に朱雀門を抜けてゆく風がとても気持ちよく感じます。 「青丹(あおに)よし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」
 
 そして最後は、これも一度は乗ってみたかった「近鉄特急アーバンライナー」に大和八木から乗客となり名古屋経由で岐阜に戻りました。 翌日は鑑定協会総会で上京するのです。
 

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