艶蕗の花

晩秋の花、艶蕗(ツワブキ)が今年も咲きました。木陰に咲いていますが、木漏れ日を受けて鮮やかです。 この花が咲き始めると冬支度まっしぐらです。


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ツワブキの木陰をつくる陋屋の銀杏はまだ緑です。
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【追記 09/11/09】
昨日は我が陋屋茫々畑にある柿の剪定をして過ごした。 我が茫々畑には甘柿が十本ほどと渋柿が五本ある。 剪定をしたのは渋柿の方である。 毎冬に老父(96歳)が剪定しているのだが、一昨年くらいから脚立の上に登れなくなったとみえて、枝は上へ上へと伸び放題であるから、枝の上の方の柿がもぎ取れなくなっている。 だから手の届かないあたりの柿を収穫しつつ、ついでに剪定を行ったという訳である。
先行き、僅かばかりの果樹の管理は茫猿の役目となるだろうから、いまの内に上に伸びる徒長枝をバッサリと刈り込んだというか切り落として、管理をし易くしたのである。 五本の渋柿を刈り込んだら刈り払った枝が一山できてしまった。 この冬は焚き火の材料に事欠かないであろうと思う。
太い枝を切り落とし、細かい枝の剪定をしながら、親爺は毎冬に何を考えながら剪定をしてったのだろうかと考えた。 親爺だけでなく老母(89歳)だって、毎日、何を考えながら畑の手入れをしているのだろうかと思わされる。 随分と耳が遠くなって日常会話すら聞き分けられないのに、年間、365日雨が降らなければ畑に出ている母である。 親爺は毎日ではないが、それでも雨降りでなければ、読書三昧のあいま、夕刻前の二、三時間は畑に出て何やら動いている。
柿の木も今の倍以上あったし、陸稲、麦、薩摩芋を作っていた戦後間もない頃と異なり、収穫物を換金するわけではないが、日々の食材をまかなうには足りている畑仕事であるにしても、汗水流して大根や葱や蕪や里芋や馬鈴薯や白菜や茄子や胡瓜、莢豌豆を育てても、それだけでは食膳は単調になる。特に冬場は青野菜に欠けることとなる。 たぶん、何十年も続けてきたから、畑仕事が習い性になっているのだろうと思う。 母親の口癖に、「やたらと作っても仕方がないが、畑を荒らして草茫々にしておくわけにはゆかない。」というのがある。
察するに、雑草で荒れた畑を見たくないのだろう。何がどうあろうと、日々畑に出て鍬を使うのが身に付いてしまった日課になっているのだろうと思う。 これからも動けるあいだは、畑に出るのを日課にしていてほしいと願うが、若い頃はこの両親の畑仕事が苦痛に思えた頃がある。
月曜から土曜まで働き疲れた日曜の朝、こちらはゆっくりと寝ていたいのだが、起き出して母屋にゆくと、既に親たちは野良に出ている。 朝寝坊したこちらが何やら申し訳なくて、苦痛に感じたものである。 野良仕事は雨が降れば休みだけれど、こちらは照る降る関係なしどころか、降りしきる雨のなかも町場の路地や田圃の畦道やときには山道を歩き回っていたと、心の隅で愚痴ったものである。 だから雨の日曜日がとても嬉しかった記憶がいまもある。
今や、そんな《値踏み屋人生》から足を洗いつつある茫猿だが、これからは《晴耕雨鑑》の日々が待っているかと思うと、これから先、何を考えて晴耕すればよかろうかと考えさせられる。 習い性にするには、まだ少し時間がかかりそうだし、何の為にという目標も未だ定かでない。 多分、親たちと同じように、屋敷の畑を茫々たるままに放っておけない、ただそれだけのこととして日々を過ごすのだろうか。
昨日は脚立を昇ったり降りたりを何度も繰り返したせいであろう、今朝、事務所の階段を上がるときには、ふくらはぎや太股の裏側がやけに痛んだ。 この痛みがなくなって習い性となるまでには、どのくらいの日数(ひかず)が要るのだろうと思う今朝である。 渋柿の枝払いと剪定は終わったけれど、この冬のあいだには甘柿も梅もその他も仕終えなければならない。
《とまあ、せっかくホメラレタのに、またまた益体(やくたい)もないことを記してしまった。とはいえ、削る気もないけれど。》

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