鄙のお寺

 何も我が鄙里にある寺の故事来歴を語ろうと云うのではない。 鄙里に起きつつある寺を巡る騒動(まだかすかな煙程度だが)を記そうというのである。 鶴丸マークが懐かしいJALが破綻し、豪腕小沢幹事長の命運が左右されようと云う時にしては、如何にもマイナーで小さな話だが、実はそれらの大事件にも関連するというか、大事件にも内在させている「馴れ合い」、「もたれ合い」、そして「寄らば大樹」と云うよりも「事なかれ主義」を見るからである。 そしてそれはNSDI-PTなどなど鑑定業界にも影を見せる事柄なのである。 「鄙のお寺」というテーマなら、そのカテゴリーは「只管打座」や「濃尾点描」であろうが、「茫猿の吠える日々(モトイ、吠えない日々)」なのである。


 我が家には檀那寺が二ヵ寺ある。 一つは寺号をS因寺と云い、もう一ヵ寺をR願寺という。 S寺は車で15分ほど離れた隣町に所在し、R寺は我が鄙里の徒歩七分ほどに所在する。 なぜに二ヵ寺を檀那寺とするようになったかというと、昔を知る人々が少なくなったから、今や確かなことは判らないのだが、S寺が元々の檀那寺であり、発祥は江戸中期とも前期とも聞いている。あるいはもう少しさかのぼるのかも知れない。 その後江戸末期に無寺地域だった我が里にもお寺をと誰かが、多分信心深い人達や檀那寺を保たないことで肩身の狭い思いをしてた人達が、勧進をしてR寺を建立したと聞いている。 両寺共に真宗大谷派に連なる末寺である。
 だから、我が鄙里では大半がR寺の門徒であるけれど、我が家のようにR寺創建以前からのS寺門徒に加えてR寺門徒でもある人達も十数軒あるし、S寺以外の寺にも檀家である人達も何軒か存在する。 昨今は新に鄙里に居を構えた人達のなかには、いずれの寺にも帰依しない人達も増えている。 このあたり、つまり門徒数を個人数で数えるか戸数で数えるかは、本来は大きなことがらであろうが、この際は何軒何戸とか人達と曖昧にしておく。
 まず最初は昨年の夏前にS寺を巡って一騒動が起きたのである。 昨年の茫猿は、たまたまS寺の”年行事”という寺院廻り役職の末端を務めていたから、この騒動の渦中に抛り込まれることとなったのである。
 騒動の発端は何処も同じ寄付金(冥加金ともいうらしい)を巡ってのことである。 S寺の書院が老朽化したから改築をしました。 ついてはカクカクシカジカの金額を納めて頂きたいと、ある日突然に通知書が舞い込んだのである。 この一通の書状を巡って紛糾したという訳である。 先ずは年行事が問い質されたのである。 「これは、どういうことだ。 わしらは何も聞いていない。」というのである。
 ところが、年行事も何も聞いていない。寝耳に水は同じことである。 普通ならば、まず「書院が老朽化して危険です。」、「ついては改築や修繕を考えたいのですが。」という先触れがあるものです。 次いで改築の了解を取ってから、工事見積書などを用意した上で、「つきましては、何かと物入りな折からですが、幾ばくかを御寄進願えないでしょうか。」 普通であれば発端から其処に至るまで少なくとも一年、時には数年の日月を費やすものである。
 それが藪から棒に、幾らいくら納めてほしいでは頭から湯気が出るのも当たり前である。 なかには『以前から二ヵ寺のお守りは負担に思っていた。 我が家にはR寺があるから、この際にS寺から抜けさせてもらう。 幸いと云うか公営の斎場も完成したことだから葬式には困らない。』という人まで現れた。
 この件は茫猿も多少の暇在(ひまざい:努力)をしたのだが、数ヵ月の時間をかけることにより、『事情は理解しました。工事が完成し立て替え払いも済んだということであれば是非もないこと。 応分の寄進はさせて頂きます。 しかし、寺側の落ち度も明らかな事情が見えるだけに、年行事が奉加帳を持って廻ることは致しません。 ご指定の銀行口座に各々の門徒が得心のゆく額を振り込まさせて頂きます。 振込についても期限を定めず、一括、分割も問わないということでご了承下さい。』ということで一件落着しました。 その後の経緯は”年行事”の役目を離れたから茫猿は知りません。
 以上は今日の記事の伏線でして、次はR寺と鄙里を巡る話題です。 我が里は長い間、少なくとも茫猿が生まれて以来の戸数は40数戸でした。 何年かに一度は新家が生まれましたが、総て在住者の縁者でした。 ところが80年代に入って地縁血縁を持たない新しい住民が時折できるようになりました。 そして90年代以降は数区画のミニ分譲地が幾つか開発されて、今や総戸数60戸を越えるようになりました。 自治会の下部組織である班も二つ増えたのです。
 そこで持ち上がったのが、「お寺の檀家になってもらう。」という事柄です。里には寺の他にお宮も鎮座していますから、氏神さんの氏子になってもらうという件と併せて、大上段に構えれば宗教絡みの二つごとが、自治会長や氏子総代に寺総代など村の役員衆の大きな仕事として浮上してきたのです。
 80年代までの新家は縁者がほとんどですし、数年おきに一軒程度の増減ですから、波風を立てないと云う智慧も本家の顔を立てるという智慧も働いてか、当然にS神社氏子となりR寺門徒となってきたのです。 ところが此処しばらくのあいだに我が里に居を構えた人達には何の地縁も血縁もありません。 氏子も門徒も二つ返事で快くと云うわけにはまいらないのです。
 新家はだいたいが若い人達ですから、住宅ローンの返済に加えて学齢期の子供の教育費、さらには昨今の不況による収入減という追い打ちまであります。 だから、自治会費に加えて年間数万円に上る、お寺やお宮の経常費負担は歓迎されないことです。 お宮には祭りの時の子若連という子ども達が参加する行事がありますし、お宮の経常費は一桁小さいからさほどに抵抗なく納得して頂いているのですが、それでも子供のいない家では拒否されているようです。
 それに較べれば、お寺はイメージとして老人のものです。 家の中に近々葬式を出さなければならない年配の家族もいないということになれば、「此処に住んだからと云って、居を構えたからと云って、どうして自動的に壇信徒にならなければいけないのか?」という疑問が生まれるのも当然と思われます。
 でも年配の先住民はこう云うのです。「この村に住んだからには、この寺の門徒なんだ。 寺(寺の組織)に入ってもらわんと困る。」 筋の通った理屈とは思えませんが、先祖代々とまでは云わなくとも、物心ついてからR寺の門徒であり、父も母も祖父母も隣家もそうだった人達にしてみれば、理屈なんぞでは無くて、慣例とか不文律といった思いなのでしょう。 一つの村内の住民が一つのお宮、一つのお寺にまとまる(結束を固める一つの方法)ことが、村の安寧を保つに佳いことと多分信じているのでしょう。
 慣例を唱える人達は、檀那寺が大事というよりも村の調和が大事なのでしょう。 多少の諍いがあったとしても、それぞれの行事の折りには同じ神前、門前で、同じように祈りを捧げ、同じ供物をいただき酒を酌み交わすということに、大きな価値を見ているのであろうと思います。 もちろん、彼等彼女等がことを分けて、そのように理解しているとは思えないのですが、深層心理は多分そのようで大きな違いはないでしょう。
 でもそういった鄙(邑)についての土着先住民の思いを新規参入者、しかも独りではなく数戸ずつまとまって一画を占めて新に居を構えた、人達の思いはまた別のことでしょう。 茫猿は彼等が鄙里を「ついの棲み家」と思っているのかどうかさえ、疑問だと思っています。 彼等の居宅は数区画の小規模分譲地(多くは旗竿分譲地、もしくは背割り分譲地)ですから、明らかに周囲の農家や、今は農家でなくとも、かつて農家であった家々とは異なっています。 家の工法も違えば家廻りの樹木の量も違います。当然敷地の広さも差があります。
 今は仮住まい、いつかは別の場所へと思っていても不思議ではないわけで、何も我が里に限らなくても、幾つかそれこそ幾十、幾百と見てきた類似の分譲地が十年、二十年経たのちの姿は新築分譲時とは様相を大きく違えています。
 このことは無秩序な開発を許してきた町の住宅行政の責任でもあるのですが、そのことにはここではふれません。 ちなみに我が町は都市計画非線引き、用途指定無しです。 農業振興地域農用地地域から外れれば、ミニ分譲が容易という”スプロール容認地域”です。 90年代以降にミニ開発が盛んになったのは、平成バブル破綻後に相対的な割安感、気付いてみれば揖斐川、長良川の橋も整備されて、大垣市や羽島市に以外と近い、そして市街化調整区域規制が無いという、小規模開発業者にとっては格好のエリアと見えたのです。
 そのことはさておき、改めてR寺の状態をただしてみれば、本堂の老朽化が進んで遠くない時期に大修繕が見込まれることが背景にあるし(寄進者の総数は多い方がよい)、新規住民を寺の組織外におけば、負担の差を言い立てる90年代、80年代参入住民、なかには俺も抜けると言い出しかねない二ヵ寺門徒の存在、何よりも宗教というものや寺院という存在が日常生活から希薄になった世相をうかがわしめるのです。
 R寺・寺総代の末席に着いて一年が経ちました茫猿は、あと残す二年の任期中にこの騒動がくすぶる状態で過ぎてほしいと思っています。 ことが荒立てば原則を言わなければならないでしょう。 宗教法人法や真宗大谷派宗門規則に則った寺院規則、門徒台帳の整備をはじめとして、自治会の不介入をはじめ寺院組織への加入を勧誘するあるべき姿にまで言及しなければならないかと思えば気が重いのです。 まして我が家は老父母が健在ですから、彼等の思いも無下にはできません。
 この四十年近く、毎朝、家を出れば、是は是、非は非を可能な限りとおしてきたつもりの茫猿ですが、こと鄙里のこととなれば、それほど単純明快にあるいは声高な物言いが憚られるのです。 今や日々の村の行事でも隣家親類の冠婚葬祭でも、年長者席に座らされることが多くなりましたから、”若ブリ”は座にふさわしくなくて”オトナブリ”が馴染むのであろうと思っているのです。
 なにはともあれ、村のこと、まして宗教とも習俗とも云えることは”気長に”時に融通無碍にと思っているのです。 ところが先日のある集まりでとある関係者が言うには、「二ヵ寺二股膏薬の茫猿さんは頼みにしない。」ということなのだそうです。 酒席の放言とはいえ、そういう思いの人もなかにはいる、いいえ少なくは無いのだろうと思わされたことです。 鄙に生活の比重を大きくすると云うことは、世慣れたオトナブリが必要なのだけれど、それだけでは何も変わらないので、時には軋轢も覚悟しなければならない。 いまさらに、まさに今更に思わされているこの頃の茫猿です。

関連の記事


カテゴリー: 茫猿 's Who, 茫猿の吠える日々 パーマリンク

鄙のお寺 への2件のフィードバック

  1. 街の住民 のコメント:

    残念ながら、流動型社会に慣れた人間と、非流動であるを良しとしてきた旧俗は、もはやおりあわないのだろうなあ、と思います。
    キリスト教徒が引っ越してきたらどうするのよ、というか、そういう事態が発生するまでは想像もつかないのが、鄙の良いところでも悪いところでもあるのだろうなあと。

  2. bouen のコメント:

    実はコメンテーターの言われることは既に起きています。「其処は避けて」という考え方に柔らかに異議を唱えたのです。先ずはすべからく習俗と宗教を分けて考えよう。門徒に帰依していただくと云うことは布教なのであると申しました。 ある種の原理原則主義ですが、それらを「ことを分けて」考えるという習慣に乏しいというか不慣れ不得手なのだろうと思っています。 とは云いながら、「触らぬ神に祟りなし」とも思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください