魂魄Ⅱ

 生命の有り様と連続について、先頃お亡くなりになった「井上ひさし」氏が、我が蒸発始末記と題するエッセイ集に収録されている「本とわたし」の一節に、とても判りやすく説かれているから、以下に引用する。

 地球上の生物に共通するのは「死ぬ」という事実である。たしかに生あるものはみんな死ぬ。だが、よく見ると死ぬのはそれぞれ個体であって、生命そのものほ(核戦争が地球をこわしでもしないかぎりは)永遠に連続してゆく。
 わたしたちの一人一人が、地球上に出現した初発の生命を引き継いでおり、だからこそいまこうやって生きているのであり、この生命を後の世代に移し伝えてやがて死ぬ。わたしたちの個体は、そこで灰になり、土へ還る。がしかし、わたしたちが中継した生命は地球最後の日までたしかに続いてゆく。
 つまりわたしたちは、生命の永遠の連続の、とある中継点で生きているのである。この中継点で、わたしたちはこれまでの生命の連続のすべてをぐつと引き受け、できればその連続になにかましなことを一つ二つ付け加えて、あとはすべてを後世に托する。これが中継走者の役目だろう。

 井上氏の説かれていることについて、別の表現をすればこうも云えるのではなかろうか。
 宇宙が誕生して約二百億年、地球が誕生してからも約四十億年、地球に原始生命が生まれてから約十数億年が経過している。 しかし、現世人類が生まれてからはまだ十数万年である。まだとは言ったものの、十数万年でも凄い長さである。百歳未満のひとの一生の長さからすれば何千倍にも相当する長さである。
 その長い々々歳月のなかの一つの連結節に我々は存在しているのである。永い過去から遠い未来につなぐ位置にあって両者をつないでゆく希有な存在であると言えるのである。しかし、別の観点から見れば、数え切れないほどあまた在る人という存在の僅かな一人であり、取るに足りない存在であるという言い方もあるだろう。
 長い歴史の中に数え切れないほど多く存在する生命の一つに過ぎないと言ってしまえば、ひとつひとつの生命はとても軽く、在るや無きやの存在に感じられてくる。 でも、その一つ一つが存在すること自体が、たとえようもない希有なことでありかけがえのないことなのだと思えば、ひとつひとつの生命はとても重く貴重なものに見えてくる。
 亡き母との対話という心象風景をつないでゆけるのは私ひとりにしか他ならず、私が存在したということを心象風景としてつないでゆくのは、私のDNAを引き継ぐ子供たちに他ならないと思えば、《できればこの連続になにかましなことを一つ二つ付け加えて、あとはすべてを後世に托す》という考え方が素直にうなずけるのである。

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