愛に殉じて

『鄙からの発信』には珍しいテーマである、というよりも似合わないテーマである。 というのも新スキーム改善問題が一段落したことから、今日は庭仕事に勤しんだのである。 花の終わった畑の秋桜の刈り取り、渋柿を摘み取っての干し柿づくり、夏過ぎに徒長した庭木の刈り払いなどなどの作業に勤(いそ)しんだというわけである。
槙の木の梢を刈り払って脚立から降りながら、ふと足元を見ると二匹の蟷螂(かまきり)がいるではないか、争っているのかとよくよく眺めてみれば、一匹の蟷螂がもう一匹を銜えて(くわえて)いるのである。 産卵を前にした牝蟷螂は交尾を終えた牡蟷螂を食べてしまうと、ものの本で読んだことがあるが、どうやらその交尾後の二匹のようなのである。


蟷螂の雌雄も判別できない茫猿のことだから、銜えられているのが牡なのかどうかは定かではない。 でも交尾を終えた牡は、牝に我が身を与え、より丈夫な卵を産ませ子孫の繁栄を願うのだとすれば、種族保存という本能といえば本能なのであるが、老境迫る茫猿にしてみれば大いなる愛に殉じる牡蟷螂の心根やあわれと、何やら身につまされる思いなのである。
ところで、新スキーム改善問題は一段落と冒頭に述べたが、改善委員会としては一段落というか一応の決着はみたのではあるが、11/01に予定される常務理事会、続く士協会会長会議の理解を得た上で、11/15開催予定の理事会承認という二つも三つもの峠を控えていることから、とても一段落などという状況にはない。 それらの総てをクリアしたとしても、その後にはシステム構築実行予算要求、設計仕様書の作成、その他さらに大きく難しい課題が年末から年度末にかけて控えているのであり、まだまだ予断を許されない状況にあることは云うまでもないのである。
そのようなことはさておき、先ほどのカマキリである。 秋が深まったせいなのか、それとも銜えた牡で手一杯なのか、石の上から動く気配も見せないのである。 よくよく見れば、くわえた口もとは動いているのである。 もう息絶えた牡は牝の為すがままである。

いのち与う  まぐあい愛し(かなし) 冬まじか (茫猿)
牡を食する牝にしても、産卵を終えれば冬を待たずに息絶えて、土に還るか、蟻などの餌になってしまうことであろう。 そこに営々と続けられる大きな命の輪廻というものを思うのである。

大いなる命の営みとはいえ、むごい絵をお見せした口直しは、朱色に染まる満天星躑躅(ドウダンツツジ)である。 朝夕は冷気が増したとはいえ、温暖な美濃平野であるから山地のドウダンほどではないが、それなりに色付いている。

ミズキの葉も残る緑とグラデュエーションを作りながら染まっている。

サンシュユは赤い実を付けているが、間もなく野鳥の餌になるだろう。 昨日は「チョットコ-イ チョットコ-イ」と聞こえたから、コジュケイもやって来ているようだ。

同じく赤い実を付けている千両である。正月の花には欠かせない千両であるが、このままでは野鳥の餌になってしまうから、ネットをかけなければならない。

千両の実は赤くなったが、万両の実はまだ青い。 万両の葉陰にはもう鳴き声の聞こえなくなった蝉の抜け殻がまだ留まっている。

藪のなかの柿の木には梢近くに赤い実が残っている。手が届かないから、たぶん渋柿だろうと決めつけているのだが、この実も暫くすれば鳥の餌になるさだめである。

僅かばかりだが蜂屋柿を摘み取り、母に倣って干し柿造りにチャレンジしてみた。初手からうまくゆけば誰も苦労しないと思ってはいるが、どんな干し柿ができるのか、一ヶ月後が楽しみである。

葉を落とした鄙桜越しに朝焼けを切り撮ってみた。 桜も牡丹も椿も柿も、いずれの木々も皆、来春の花芽をすでに用意しているのである。 植物も動物も一つの営みを終えるとすぐに、次の営みの準備を始めているのだと思えば、遥か昔から連綿と続く命の輪廻の凄さも素晴らしさも思い知らされる。 それに比べて我々鑑定士はなどと言うのは野暮というものであろう。

来週早々に予定されている士協会会長会議を終えれば、次は仙台での鑑定シンポジウムにおける地理情報:Map Client のプレゼンが待っている。 プレゼンを終えたら、山形に向かい「岩にしみいる蝉の声」で有名な山寺立石寺の紅葉を訪ねようと考えている。 山寺のあとは酒田市吹浦にて日本海に沈む夕陽を眺め、土門拳記念館や鶴岡の藤沢周平記念館を訪れたいと予定している。
仙台・山形から帰れば、学生時代の同窓生が我が茫猿鉄道ジオラマを観にやってくる予定である。 伊達政宗は「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。」と言ったと残されている。 茫猿も我が茅屋で育てた大根や青梗菜や青柚子を使ったもてなしを馳走にしようと考えているところである。
そういえば政宗のことばで有名なのに「仁に過ぎれば弱くなる。 義に過ぎれば固くなる。 礼に過ぎれば諂い(へつらい)となる。 智に過ぎれば嘘をつく。 信に過ぎれば損をする。」というのがある。 過ぎたるは及ばざるがごとし、ほどほどにということなのであろうが、なんともはや実も蓋もない融通無碍な蒟蒻問答である。
【後日の追記】
後日、蟷螂の居た石の上を確認すると、石の上には頭と斧一つが残されているだけだった。 牝蟷螂は牡蟷螂をほぼ完食した模様である。

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