ぎふ戦国姫隊

04/02 今日は恒例の岐阜県鑑定士協会・不動産無料相談会が岐阜市役所ロビーで開催され、茫猿も相談員のひとりとして参加した。 茫猿が担当した時間帯の相談者数は例年より少なめであったが、それでも集落内旧家の管理処分方法や、境界争いの解決方法など多岐にわたる相談を受けた。 一般に無料相談会は高齢者の愚痴の捌け場所的要素も含まれており、聞くことが重要で解決方法に至る話は二の次なのである。 いずれにしても何かのお役に立てればそれでよいのである。

さて、相談会の担当時間が終われば、これまた恒例の岐阜公園・桜探勝である。 例年にない寒さ続きであるから、公園の桜に多くは期待しなかった茫猿と同行のA.T氏であったが、それでも金華山ロープウエイ乗り場付近では六、七分咲の桜と散り染めの八重紅梅に出会った。

ひとわたり、咲き初めも見あたらない桜を探したあとは、これまた恒例の「田楽のむらせ」で豆腐田楽を肴にして昼下がりの一献である。 ともに「華の昭和十九年組」を自称する二人が、仲間が一人二人と引退してゆくさまを惜しみ、来し方行く末を語り合っていたところ、華やかな姫御前という二輪の花に恵まれたのである。 論より証拠、花より団子なのである。先ずは写真を御覧あれ。

 笑顔こぼれる姫様(たま姫さまと濃姫さま)との記念撮影に、老いも若きもやや緊張気味。

 むらせ店内に掲げてある「2001年築城800年:岐阜城」の色褪せたポスターを前に、800年前の岐阜城?と不思議がっていた、岐阜城の歴史にそれほど詳しくない二人でも、濃姫は直ぐに判りましたが、たま姫がわからないのです。よくよく聞いたら「明智光秀の娘です」と言う。 「あぁー 細川ガラシャの  たま」かと理解したら、彼女はクルスを取り出して、掲げてくれました。
《岐阜城築城800年については後述します。》

彼女たちは戦国ぎふ姫隊と称する一団で、2012.04.01から2012.04.06の期間中、岐阜公園付近に出没するのだそうで、偶々運良く我々が遭遇し御目見得の栄に浴したというわけです。 猿もあるけば姫に会えるというわけで、他にもね々姫、お市の方、お千代などが登場するのだそうです。 信長は登場しないようですが、狂言廻しに籐吉郎も登場するそうです。

桜と言えば、岐阜公園近くの鵜飼い桜が見頃に近いと伺いましたが、昼酒をいただいた二人はそこまで歩く気力無しで、割愛しました。 岐阜の桜はこれからですが、天気予報によれば今夜からは花に嵐の予報です。 なにはともあれ、櫻とは二階(貝)の女が気(木)にかかるという花見でした。
過去記事ですが、 鵜飼桜が見頃 2009年3月18日
 同じく三年前の    四月一日  2009年4月2日

「美濃を制するものは天下を制す」 難攻不落の城は天下への架け橋

岐阜城は、かつて稲葉山城と称していました。金華山頂にはじめて砦を築いたのは(1201年頃)、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあったところです。
特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7年)8月、不世出の英傑織田信長公がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。
しかし、慶長5年(1600年)8月、関ヶ原合戦の前哨戦の際、織田信長公の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。翌慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。
(岐阜市公式サイトより引用)

《今朝の鵜飼桜:襲来が予想される春の嵐にうたれる前に、護国神社境内にて
2012年4月3日、7:28:18 撮影、 左より、立て札、花影、境内の八重紅梅。》

      

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