原発再稼働とは何か

福井県大飯原発の再稼働を巡って日本が揺れている。 政府と経済界と地元自治体は再稼働に積極的であり、周辺自治体は消極的であり世論調査などに見られる一般市民の意向も消極的なのである。 原発(由来)電力を巡って生産地と企業連合対消費地の争いと置き換えてもよい状況である。 どうしてこのような状況が生まれてくるのであろうか考えてみたい。

茫猿は福井県の隣県岐阜県に居住するから敦賀原発も浜岡原発も訪ねたことがある。 原発立地地域を訪れてみれば直ぐに判ることであるのだが、原発立地自治体はいわゆる僻地に位置している。 原発が無ければという状況を想像するのはとても容易である。 たぶん過疎高齢化が進み人口流失が止まらない状況となっているであろう。 もちろん、原発が無ければそれに代わる地域振興策が図られていたのかもしれないが、周辺の非立地地域を対比させてみれば、それが難しいこともよく判ることである。

原発が稼働して既に三十年、四十年を経過しているから、自治体財政は交付金や寄付金に絡めとられているのであり、地域経済は原発関連企業に支えられている。 直接的な原発メンテナンス関連下請け企業だけでなく、宿泊や飲食、物流など間接関連企業とその雇用者を含めてみれば、地域経済は原発無しでは成り立たなくなっているのが実情である。 だから、十年二十年先のことはともかくとして、今は再稼働によって地域経済を維持するしか方法がないというのも容易に理解できることである。

ところが、大飯原発や敦賀原発を例にして考えてみれば、大飯町から福井市までの距離よりも琵琶湖までの距離が近いのである。 我が居住地岐阜県西濃地方にしても敦賀市までの距離は福井・敦賀間の距離とほぼ等しいのである。 さらにこの地方の風向きは冬季は北西方向、夏季は南東方向からの風が一般的であることからすれば、距離以上に原発との位置関係は近いと言えるのである。 これは福島原発事故における浪江町双葉町と飯舘村との位置関係に同じことである。 水素爆発が起きた場合には距離的位置よりも、その時に風下に位置するか否かが汚染されるか否かを分けるのである。

その意味からは、琵琶湖の汚染を心配する関西自治体首長の懸念は当然だし、冬季には北西季節風の風下に位置する岐阜県民の懸念も当然のことである。 とはいっても、「電力需要府県は電力を要らないのか」と問う立地県の主張もいささか冷静さを欠いていると思われる。

原発電力に限ったことではないので、水力然り、上水道水源然り、酸素供給源(森林資源)然りなのである。 繁栄を謳歌する東京・大阪などの大都市圏域と、そこへ電力や水や酸素を送り続ける過疎地方圏域との意識格差は埋めようもなく大きくなっていると言えるのである。 問われているのは、福井県や福島県、新潟県に原発を過度に集中立地させ、交付金で羽交い締めにしてきた日本の社会全体のあり方が問われているのである。

ここでも戦略不在が問われなければならないのである。 原発は使用済み燃料の処理費用と廃棄炉の処分費用並びに想定外事故を考慮しなければ安定的かつ経済的な電力である。 しかし、福島原発の事故で判明したとおり、想定外事故の結果として発生する費用負担は未だに計算できていないし、使用済み燃料についても処理工程すら明らかになっていない。 廃炉処理については何もないのと同じである。 何よりも、四十年五十年経過して廃炉としたあとの新規立地場所が、もう見つからなくなりつつある。

誰かが「原発はトイレのないマンションだ。」と言ったが、まさにそのとおりなのである。 経済性しかも短期間の経済性のみを追い求めてきた結果が現在なのであり、部分利益と全体不利益あるいは合成の誤謬ともいえる状況なのである。 そこには俺さえよければ、俺の世代さえよければという我が儘な論理しか見出せないのではなかろうか。 経済成長や物質的繁栄のみを追い求めてきた報いと評しては言い過ぎだろうか。 今の日本は「人口八千万時代」にふさわしい「日本の有り様」を考える時ではなかろうかと考える。

「最近のニュースから法的問題と道義的問題について」
・原子力委員会事務局に、電力会社や関連企業から多数の社員が出向している事実は社員の専門知識などを理由とするものであり、法的には直ちに問題とされないが、道義的には原子力委員会の中立性を疑わせるに十分な事実である。

・名張毒葡萄酒事件で名古屋高裁は再審請求を却下した。 既に五十年を経過し今や真実を見つけるのはとても困難であろうと思われる。ただ高裁判決は推定有罪判決であり、疑わしきは被告の有利にという推定無罪原則が揺らいでいるのが残念である。 確たる物証が無く後に翻された自白のみが有罪の根拠であるこの事件は、被告が既に五十年間死刑囚として拘束されていることを併せ考えれば、別の結論も有り得るのではと思わされる。

・お笑い芸人次長課長の一人が、母親の生活保護支給を巡って話題となっている。 多額の収入がありながら母親に適切な扶養義務を果たさずに生活保護に頼ったという道義的責任が問われている。(この件は当事者の顛末よりも、Blogで実名告発した片山議員の正義の味方ぶりが気に障る。)

・NHK経営委員長が東京電力社外取締役就任を巡って辞任した。報道機関のトップが原発事故を起こした電力会社取締役に就任するというのは、法的に問題が無くとも、道義的にはあり得ないことである。 ましてや近い将来に東電会長就任も噂されているとしたら、論外のことである。

NHK経営委員長、次長課長、原子力委員会事務局、いずれにも共通するのは法的に問題なければそれでよしとする、薄っぺらな倫理観である。 いずれもそれなりの社会的地位を占めている人たちが起こした事件であるだけに、その根は深いものがあると言わなければならない。

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