夢追う負けいくさ

NHK・BSアーカイブを見ていましたら2003年放送の三代目猿之助インタビューが再放映されていました。 そのなかで彼は夢を持つこと追い続けることが大切と語っていました。 「夢は99%叶わないものだが、夢を追い続けるなかに幸せがある。」と言っていました。 これを聞いていて思い出したのは久野収氏が言っていた「負け続けることに意味がある。」 そして尊敬する福井達雨氏が座右にしている「負け戦にかける。」という言葉でした。

茫猿の人生の師匠とも云える福井達雨先生、お目にかかったことはなかったが著述とその行動を通じて尊敬する久野収氏、このお二人が共通して述べているのは、「負けいくさにかける。」であり、「負け続けることに意味がある。」です。

福井達雨先生はこうも言われます。
『勝つこと、強くなることばかりを追い求めることは、負けた側弱い側を切り捨てることになります。 勝者がいれば敗者もいるのであり、一位がいるということは二位も三位もいるのです。 勝者が敗者について、強いことも弱いことも素敵なのだと、相手を思いやる優しい心を持つことが大切なのです。』 そして見えないものを大切になさいと言われます。

久野収氏はこう言われます。
『来る日来る日を今日限りとして生き尽くせ。 神は細部に宿る。 少しでも理想に向かうことが我々の勝利であり、どんな敗北の中からも民主主義完成の契機がある。 どんなに敗北を重ねても負けない自分がここにいる。それが人間の勝利であり、それ以外の勝利を考えるようになると組織や運動はもちろん、人間の堕落が始まる。』

考えてみれば、茫猿の人生も負け続けの人生だったように思える。 でも勝つことを目標にした人生だったかと自らに問えば、「勝ち負けなどではなく、何を為したいか、何を伝えたいか」ということに重きをおいていたように思う。 だから理解されること少なく、いつも早すぎると評されてきた。 最近も似たような森島評を聞かされたばかりだ。

振り返れば、負け続きの人生だったと言えるのだが、負け続けながらも夢や虹を追いかけるのは楽しく幸せなことだったと思い返すのである。 理解者を一人でも増やそうと努力し、説明して駄目なら実際に形にして示す、それでも駄目なら、賛意を示すものだけでスタートする。 決して置き去りにはしないし、排除の論理もとらないが、総意を得るまでは待つには時間が限られていると思えば、とりあえず少数派でもトライ・スタートする。 こんな手法が独走という世評を生むのであろうが、茫猿にしてみれば自らがリスクを取っているだけである。

結局の処では多数派が、世慣れたほどほどに角の取れた形に集約してゆく。 提唱したことが全否定されたわけではなく、結果としてかろうじて合格点に達したのだから、それはそれで良しとしなければいけないのだが、第三者的に見れば茫猿の負けである。 その意味では負け続けた三十年と言ってよいであろう。 でも負け続けながらも、夢や虹を追いかける幸せを味わい続けた三十年と振り返って好かろうと思っている。 だから『鄙からの発信』を開設して以来14年、茫猿は遠吠えを続け、遠吠えに疲れれば只管打座へ逃げるのである。

こんな記事を書いてから既に七年が過ぎた。
ICT化の光と影    そして  ICT化の光と影-2
この記事以後の七年間、吠えつづけたけれど遂に歯牙にすらかけられることなく、蟷螂の斧は消え去ることとなるのである。

 天候不順で咲きそろうのが遅れたサツキがようやく満開になったが、日照り水不足をのせいか生彩がやや乏しい今年のサツキである。

 馬酔木(アセビ)の花が咲いた。葉陰に小さな白い提灯を秘やかに並べて咲いている。

  母が慈しんだ鉢植えのサボテンが、今年も花を咲かせている。 母逝ってもう二年、主(あるじ)なくとも変わることなく咲いてくれるのが、とても嬉しい。

 

大島桜が、実を付けています。 少しばかり渋いなかにほのかな甘味も感じる果実です。

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