北紀行§9 賽の河原にて

2012.08.07  08:00 ゆっくりと久しぶりの和朝食をいただいた茫猿は、この旅の最後の目的地というか長旅を企てた目的地でもある恐山へ向かうのです。 宿を発つ前に女将に「恐山へは大湊へ戻ってから向かった方が好いですか、それとも?」とお尋ねしたところ、「せっかく、下風呂に居られるのだから、大畑から薬研渓谷を越えて恐山に向かい、帰りは大湊へ出られたら如何。 同じ道を帰るのはつまらないでしょう。」とのお答えです。

ところが、カーナビに設定したのが恐山菩提寺ではなく、カーナビ入力の際の確認ミスから、その本坊である《恐山》円通寺だったことから、大畑地区で行く先を失い、この先は崖崩れで通行不可などの道に迷い込んだりしました。 改めて設定を直して恐山に向かいますと、早朝のせいか、それとも逆方向のせいか、対向車の殆ど無い七曲がりの山道(一応は県道)を抜け峠を越すと、眼下樹の間越しに宇曾利山湖が見えてきました。
        
(左)恐山 山門  (中)恐山境内、風にのって微かに硫黄のにおいがする。  (右)恐山境内、参拝者なら自由に入浴できる浴室が左手に見える。天然温泉風呂のあるお寺というのも珍しい。タオルの用意もなかった茫猿は入浴はしなかったが、今から思えば惜しいことをした。

        
(左)賽の河原、硫黄の噴気がところどころで上がっている。 (中)境内から眺める宇曾利山湖  (右)流れ込む硫黄のせいだろう、碧緑の色に静まる宇曾利山湖。
死者が集う霊場と言われる恐山について、ここで語るのは控えますが、異次元空間であることだけは間違いのないことです。 お盆が近いとはいえ、早朝の時間帯ですから観光バスもいなくて、賽の河原も宇曾利山湖畔も人影が少なく静かなものでした。 茫猿にまつわる何人かの死者を偲ぶにはとても佳い時間を過ごさせてもらいました。

茫猿などが語るよりも、恐山院代:南直哉師が語る恐山。
【こころ元気塾】(1)幼い頃から「死」を意識(2012年5月31日)
【こころ元気塾】(2)骨をうずめる修行道場ない(2012年6月1日)
【こころ元気塾】(3)悲しみ、逃れずに耐える(2012年6月2日)
【恐山院代・南直哉師のBlog】恐山あれこれ日記
運が良ければ 南直哉師の法話が伺えるかと淡い期待を持っていましたが、法話は宿坊に泊まる者にのみ行われると知らされ、売店で南師の著書を一冊求める。

        
恐山をあとにした茫猿は、下北半島の東北端・尻屋岬(左)に向かいます。 寒立馬で有名な尻屋岬で運良く寒立馬(中)にも出会いました。 寒立馬はサラブレッドなどとは全く異なる、がっしりと無骨な馬体でした。 尻屋岬の所在する東通村は蕎麦の産地でもあり、村には二軒の蕎麦屋が営業すると、ガイドブックにあります。 その二軒しかない蕎麦屋(右)さんのうち田やさんで、十割蕎麦を昼食にいただきます。 東通産の蕎麦を使い石臼でひいたそば粉を用いた十割蕎麦は、はるばる訪ねたかいのある蕎麦でした。

   
(左)東通村、田やさんの十割蕎麦・おろし蕎麦  (右)青森の蓋、意匠はネブタ。

昼食のあとは国道338号線をひたすら八戸に向かって車を走らせます。 途中に東通原発、六ヶ所村・動燃リサイクル施設などを道すがらに眺めながら、とはいっても標識とフェンスを見ただけですが、八戸へと向かいます。 東通原発も六ヶ所村動燃も、考えさせられる、ひと気の無い周囲の景色とあわせて、ただ考えさせられるだけである。 八戸でレンタカーを返却し、東北新幹線で一路帰途に就くのです。 帰途に、横浜で先月開館した原鉄道博物館に立ち寄るのですが、そのことは後ほどに。 では、もう一度、其処此処に噴気の昇る賽の河原を。 参拝者が亡き子供を偲んで、回向のために積んだ石積みが幾つか見えます。ひと気無く静まりかえり、垂れ込めた雲の下、浄土を思わせるような宇曾利山湖畔

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