然るべき沈黙

高倉健主演の「あなたへ」、杉村春子・乙羽信子主演の「午後の遺言状」、しばらく前に見たクリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」、老優が老優であるがゆえに佳い味を醸し出している二時間ほどを過ごせば、心地良い余韻に寒い心を委ねることができる。
さて、疚しき沈黙と題する愚考をアップしたのは先週のこと、疚しき沈黙は誤った表現なのではと思いつつある。 疚しきではなく、然るべき、もしくは、左もあらむ沈黙なのではと思いつつある。

高度成長前期に国策に沿うものとして、拡大する公共事業用地取得価格の抑制、せめて円滑化を図るものとして誕生した不動産鑑定評価、制度創設の大義としては取引市場の指標たるべき位置が求められたものの、それが叶えられることはなく、その後は公的土地評価の一元化並びに課税評価の適正化(時価評価の導入)、そして不動産市場の透明性・効率性の向上を目指す脇役として位置付けられてきた。 ざくっと総括すれば、このように不動産鑑定評価五十年史を云ってもそれほど的はずれではないだろう。

国策に後押しされてきた鑑定評価であれば、国策の変化に伴ってその位置が変化するのも、ある種当然なことであろう。 先にふれたように、斯界が公的土地評価指向グループと市場のグローバル化あるいは市場の透明化・効率化指向グループに二極化してゆくのもまた、時代の必然性なのであろうと思われる。

であれば、国策の変化に如何に即応してゆくかが大事なことであり、国策に異議を唱えたり独自の施策を指向したりすることは、無意味というよりも有害無益なことなのであろうと思われる。
だから、疚しき沈黙などではなくて、然るべき沈黙なのであり、左も有り得べき沈黙なのであろう。
公的土地評価一元化の波に乗り遅れまいとすべきであり、中古住宅市場の活性化に少なからず参画したいと考えるのも至極当然なことなのであろう。

相当程度に難易度が高いライセンスとはいえ、たかだか数千名の集団なのであり、社会への影響力もまた集団の大きさが大きく左右するものであるとすれば、なにほどのことがあろうかとも思わされる。 既に少なくない俊秀が鑑定評価の前線を離れ、業界活動と距離を置きつつある現状は、その実情を如実に示しているのであろうと考える。 役員の引き受け手が少なくなっているという現実も、ケツの青い書生論に向けられる冷ややかな視線も、そのよって然らしめる処なのであろう。

茫猿にしたところで、意味のない遠吠えを続けているのは何故なのだろうかと、自問自答するのである。 結局の処、遠吠えを止めてしまえば、自らの存在する意味が見なくなってしまうからではないのかと気付けば、結構納得できるのである。 何かの為に遠吠えを続けているのではなく、遠吠えそのものが生活のルーテインワークとなってしまっている。 夏過ぎて秋もこの頃になれば、鳴き続ける蝉時雨にも慣れてしまったように。 でも、そんなものを読まされる読者こそいい面の皮なのだろう。 だから、最初から「茫猿遠吠」と断っていると開き直るのである。 何とも度し難い鄙の堂守りなのである。

 

 

 

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