先月のこと 半世紀に及ぶ交遊を重ねた友ふたりが、相次いで病臥に伏した。
二人のことを思うとき、これが老いというモノなのかと思いしらされている。
M君は肺の組織が繊維質化するという、確かな治療の手だてが見つからない難病である。 年初以来 通院療養を続けていたが思わしくなく先月半ばに入院した。 入院はしたものの 治療の手だてが無く転院を勧められてもいるという。 見舞っても、会話を続けるのが息苦しくて目を閉じてしまう。 枕元で只々顔を眺めているだけである。 ひとときのあいだ痩せた彼の顔を眺めおり、辞し際に手を握れば、まだ強く握りかえしてくれる彼の握力に安堵して病床をあとにする。
病に倒れた口惜しさを言う彼に返す言葉もなく、息災な我が身を見せる後ろめたさすら感じるのである。 ここ数年のうちに、年の近い叔父叔母そしてふた親を見送った我は、同年の友が臥している病床では語ることばさえ見失っていることに、あらためて気づかされている。
もうひとりの友 N君が脳梗塞に倒れたという報せを受けてから、既に半月が過ぎた。 日帰りが可能な距離の病院に入院しているから、早く見舞いに行きたいのだが、ご家族からは「病状が安定したらご連絡します。」と言われている。 はやく言えば「見舞いご辞退」ということである。 病状を伝え聞けば、見舞いは辞退したいという家族の心情もよく理解できるのであるが、顔を見たいという気持ちも抑えがたいのである。 それに、見舞ったとしてもM君と同じことであろう、只々顔を眺めているだけであろう。
考えてみれば、考えるまでもなく、僅かな行き違いから病床に臥す者と それを見舞う者との差が生じただけであり、明日は我が身というよりは一つ行き違えば病者と見舞い者は処を替えていたことであろう。 生き長らえることの意味とか、如何に死する為に如何に生きるかなどという戯言(タワゴト)は、息災であればこその戯れ言(ザレゴト)なのであろうと思い知らされる。 今 生死の境にいる者にとっては、生き長らえることのみなのであろう。それ以外は総てザレゴトであり世迷い事なのであろうと思わされるのである。 だからこそ たまたま病床にあり、たまたま辛うじて息災であることの差など無きに等しいのであろう。 それが老いるということなのであろう。
まだ睡蓮が花を開いている。 この夏の花は終わったと思っていたのに、今朝は新しい花を開いている。
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