究極の片思い

2014.09.01 関東大震災の発災を記念して設けられた防災の日である。朝から雨模様の一日である。

広島の土石流災害の記憶は生々しいが、東日本大震災と福島原発事故から既に三年半が経過した。原発事故は未だに終熄の兆しも見えないが、地震と津波被害について被災地の外では記憶の風化さえ言われるようになった。日々、新しい出来事が記憶の表層に積み重なり、古い記憶は新しい記憶の底に押しやられ思い出すことも少なくなってゆく。 災害は忘れた頃にやってくると言うけれど、忘れなければ遣り切れず、忘れてしまえば同じ過ちを繰り返すのが人の性《サガ》なのであろう。

2014年も残すところ三分の一、暑い熱いといっていた夏は記憶の底に沈み、肌寒さとともに寒い冬もそんなに遠いものではない。数日前に高校の同窓会幹事会があり、幾人かから「最近は更新されていないね」と聞かされた。ここにも読者がいたのだと有り難く嬉しく礼を述べたのである。 その件“クダリ”を思い出して「由無しごと」を綴っている。

先々号くらいの記事に「宇宙の輪廻」について書いた。 DIAGRAM of our universe《宇宙図》の件である。この件に触発されて「ホーキングの最新宇宙論」《1990年刊行》を読み返している。読み返しているが、やはりよく理解できない。万有引力と相対性原理と量子論のつながりが茫猿の理解の範疇をはるかに超えているのである。 たった一つなんとかわかるのは、あまりにも大きなスケールの話であり、あまりにも微細微小な話であるということだけである。

だからどうなのだとか、だからどうしたと言ってしまえば、それだけのこと。138億光年の彼方を右手に、微細微小な素粒子の不確定な揺らぎの世界を左手に、日夜探求と思索を繰り返している人たちが同時代に生きているという不思議さを思わされるのである。

地元の寺との義理ある付き合いから、浄土真宗の教義を学ぶ月一度の集いに先月から参加している。年内に都合五回の集会と来春の本山集合研修という集いである。そのことに触発されて「正信偈の講話《暁烏 敏著》」を読み始めている。親父の書棚にあった無量寿と不可思議を説く本である。読んで解ることでもなかろうが、読まねば暗愚のままに終わるだろうと思えば、読むに如かずということでもあろうか。

表題の「究極の片思い」とは、こういうことである。 孫娘の来訪とともに始まった今夏のお盆、孫の帰京とともに夏は終わり、今日は肌寒い驟雨の朝である。被災各地に想いを寄せながら庭先の木陰に秋来るを見ている。《08.25のtwitterより、以下はtwitterの再掲である。》

来て嬉し、帰って嬉し孫娘、などとも言うが、変化の乏しい老境日常では、来て楽し、帰って淋しである。不順な天候だから、野良仕事で紛らわすこともできない。ツイートでもするかである。

他人にすれば聞き苦しいだけの孫自慢であるが、昨夜は老妻としばしの孫自慢だった。いわく、顔立ちが整っている。理解力が優れ聞き分けが良い。体力が溢れている。先行きが楽しみである等々、髭爺と老婆は思い出話を肴に茶をすするのである。

此の夏の我が家は、茫猿の次に孫娘が二番目に早起きだった。早朝に新聞を読んでると、”パタパタ”という足音とともに起きてきて、ニコっとしながら”ワンワン、ジージ”と片言の挨拶をしてくれた。帰京してしまった今朝は、なんの音も声もない、閑かな朝である。所在なく、彼女の置き土産の動画を飽かず眺める。

琵琶湖畔・長浜の鉄道館でお気に入りだったプラレールは、かつて彼女の父親もお気に入りだった。さっそくに買い求めて我が家に拵えたら幼女なりの遊び方を覚えたのである。次回の来郷までにもっと整備拡充して、鉄女のご機嫌を取ろうと思っている。

森島さんも結構好々爺しているのですね。孫と年金と病気が話題になるとお互い人生のレースの第四コーナーです。さあ、ムチを打ち続けましょうか。《畏友M氏のツッコミ》

林住期たるべく髭爺への軟着陸を目指して既に五年が過ぎました。今は林住期から遊行期を目指しています。遊行期をものにすれば、臨終期も平らかなものとなるだろうと思っていますが、はてさてどうなることやら。《茫猿のRコメント》

爺や婆が孫のことを懐かしく愛しく憶うとしても、離れて暮らす孫が祖父母のことを懐かしい以上に憶うとすれば、それは孫の身の上に不幸が降り掛かった時である。離れて暮らす父や母を憶うことはあるだろうし、それは当然のことでもある。しかし父や母としては子供が親のことを憶ってくれるのは嬉しいにしても、日々の様々なことに追われて親のことなど思い出す暇もなしでいてほしいとも思うものである。 それゆえに、爺や婆が孫を愛しく憶うのは究極の片思いなのだろうかとも考えるのである。

孫が帰京して一週間が過ぎた。ニギヤカな声や物音が消えた鄙里の佇まいにも、ようやくになれた九月最初の一日である。 朝から雨が降り続くから所在なく過ごしている。所在なさに腰をあげて、カレールーを仕込み冷凍保存した。チキン、タマネギ、ニンニク、そして二種類のカレー粉末のみのルーを仕込んだのである。冷凍保存して慣らし、忘れた頃に食する予定である。 涼しくなったから、常備菜としてのチリメン山椒も作った。日射しが戻ってきたら秋野菜の種まきも始めなければならないと考えている。柿の木はたくさんの実をつけたから、多すぎる実を選らなければと思っていたら、ヘタ虫が発生して半分ほどの実が落果している。ヘタな考え休むに如かずである。落果繁しといえども、年寄り二人の口をまかなうには十分な量であろうと思っている。

 

関連の記事


カテゴリー: 四季茫猿, 茫猿残日録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください