風三題

立冬も過ぎて、北風が吹く季節となってきた。 この地方では木枯らしを伊吹颪《オロシ》と称する。北西方向にそびえる伊吹山から吹き下ろしてくる北西風を伊吹オロシと言い慣しているのであるが、棲む者の実感としては伊吹山と養老山脈のあいだのはざまである関ヶ原方面から吹いてくるシベリアからの空っ風が冬の季節風である。音をたてて木立を揺さぶる風が吹くようになると年の暮れを感じるのである。 伊吹オロシが吹けば紅葉した木の葉が舞い散り、風花が舞って冬の季節到来である。

風三題と題するのは、北風のことでも風花《晴れていながら、北風に乗って舞う雪のこと》のことでもない。 風流、風格、風情の三題のことである。

まずは風流である。 これを「ふりゅう」とも読むし「ふうりゅう」とも読むが、両者の意味合いの違いは、不勉強で知らない。 風流とは広辞苑によれば、後世に伝えたい流儀、雅やかなことなどとある。美しく飾ることとも意匠をこらすことともある。

禅的にいえば、意に染まないできごとも「風流だね」と肯定的にとらえるというか、さらりと受け流す態度を風流と謂うようである。 それを禅語的には「不風流處也風流」と言い表すようであり、「風流ならざる處もまた風流」というのであろうか。

風流とは粋なこととか優雅なことなどの意味で使われるが、本来的には字句どおりに「風の流れ」であり、風の流れがもたらす揺らぎなのである。「ゆらぎ」は物理学の定理の一つであり、詳しくは理解できていないが、「1/f ゆらぎ」という言葉は知っている。

「1/f ゆらぎ」《パワースペクトルが周波数(f)に反比例するゆらぎ》は、不規則さと規則正しさがちょうどいい具合に調和している様であり、ろうそくの炎、そよ風、小川のせせらぎなどの様々な自然現象の中に発見されている。「1/f ゆらぎ」は人の心拍の間隔にも発見されており、クラシック音楽、手作りの工芸品などにも存在していると云われている。 また「1/f ゆらぎ」は人に心地好さをもたらすともいわれる。  風流とは「ゆらぎ」を楽しむことなのであり、不風流もまた「ゆらぎ」として楽しもうというのが「不風流處也風流」なのである。 風流とは三味線にのせて都々逸を口ずさむことでも、粋に野遊びをすることでもないと申せば、これまた不風流なことなのかもしれない。

風格という言葉がある。これも広辞苑によればおもむきのある人柄とか品格とでもいうことのようである。一朝一夕に形づくられるものではなく、長い歳月を経て、風雪にさらされて自ずとにじみ出てくる好ましい人がらとでも云うのであろうか。いわば、創建時の朱色や蒼色が長の年月に削ぎ落とされ、今や侘び寂びをそなえるに至った社寺仏閣の佇まいとでも云えようか。 「ゆらぎ」を解する生き方であり、「不風流」もまたさりげなく楽しむ生き方なのであろう。巧まずして「1/f ゆらぎ」が備わっている人がらとも云えよう。

風情とはおもむき、味わいなどを云う言葉である。本来は「町人風情」などと使われる言葉ではない。雅さや揺らぎを備えた人を風情ある人と云うのであろう。 風には他にも風韻、風雅、風姿などがあり、いずれも「ゆらぎ」をそなえ表わし楽しむ人の態度生き方を云うのであろう。 風俗だって様々な人のならわしなどを云うことばだったはずが、いつのまにやら風俗営業などと歓楽を指す言葉に貶められている。 しかしながら、それを不風流とあげつらうのは、それこそ野暮であり、「不風流處也風流」と受け流すのが風格なのであり風情を知ることなのかもしれない。

風は冷たくきついけれど、晩秋の日ざしに映える陋庭の風情である。 花は石蕗《ツワブキ》である。IMG_0584

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