過ぐる日に「何処か紅葉見物に行かれましたか?」と尋ねられた。 北国や高冷地から降りてきた紅葉前線は今や我が鄙里を通り過ぎ去ろうとしている。 紅葉の名所は全国に多いが、鄙里の近くでも、美濃市大矢田、養老の滝、揖斐・横蔵寺など数多い。でも、この秋に茫猿は何処の紅葉も訪ねていない。
紅葉に限らず桜の名所も全国に数多い。鄙里の近くでも日本三大桜の一つ根尾の薄墨桜をはじめ、池田霞間ガ谷の桜、養老の滝、長良川の土手などなど数多い。月の名所だって数多いのである。 それでも茫猿は鄙里の紅葉、鄙里の月、そして鄙の桜をいとおしむのである。おらが紅葉、月、そして桜なのである。
なぜだろうかと考えている。 一つは日ごろ手塩にかけているから、一つは慣れ親しんでいるから、そしてこの世に唯一であり己のものだからかと考えている。月は己独りのものではないが、月を見る景色は唯一独尊なのである。霜雪を置く冬に始まり、芽吹き花開く春、緑濃い夏には下草を刈り病虫害の防除も行い。そして迎える紅葉の季節なのである。
何もそれぞれが所有する紅葉や桜を持てばよいなどと申しているのではない。おのが紅葉、桜とは自分自身の感性や感覚で大切に思う桜や紅葉を持てばよいというのである。
初冬快晴の朝である。昇る朝陽に白く輝く伊吹山、西空には残月が見え、散り惜しむ紅葉があり、冬野菜におく霜もきらきらと輝いている。
晩秋の過日、沼津御用邸記念公園にて孫たちと遊んだ折の写真が息子から届いたが、そのなかに私と孫娘のうしろ姿があった。その写真を眺めながら背中は正直だと思わされた。 子弟には己の背中を見せて導くというけれど背中は正直である。何も語らない背中が最も雄弁に茫猿の唯今を語っていると思わされたのである。口惜しいけれど冷徹な現実がそこに見えるのである。
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