残日録−ネオリベと鑑定評価

ネオリベラリズム《新自由主義またの名を市場原理主義あるいは自由競争至上主義》と、不動産鑑定評価 は、本来は相容れないものではなかろうかと考えているのである。

「鑑定士残日録−3−成長至上主義の訣別」をアップした後、ピケテイの「21世紀の資本」を読み始めたのだが、固いものばかり続けて読むのに疲れたから、何か軟らかいものをと鄙の書棚を渉猟していて「内橋克人:悪魔のサイクル」に目が止まった。

内橋克人氏の著書は1998年当時刊行の「同時代への発言:日本改革論の虚実」以来、何冊かを読んでいる。今、手許に残されているのは、「悪魔のサイクル」と「消尽の世紀の涯に」だけである。同次代への発言シリーズは息子たちが持ち去ったように記憶する。

さて、「悪魔のサイクル」シリーズであるが、2006.10刊行のこの本は、水野和夫氏が「資本主義の終焉と歴史の危機」で述べている「グローバル資本主義はバブルの生成と崩壊を繰り返す」を、「ネオリベラリズム循環」という言葉で、2006年に既に述べているのである。

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グローバル資本は世界をまたにかける電子・金融資本であり、それはITマネーである。そのITマネーを象徴するものがヘッジファンドである。 ヘッジファンドは世界の富裕層から資金を集め、為替の先物取り引きのように、レバレッジを効かせた投機的な取引を行うファンドである。 ITマネーは為替先物取引以外にも様々な商品取引先物市場に進出しており、新たな先物市場を作り出すことまで行っているのである。

内橋氏はこうも言うのである。 興味深い表現がある。ミヒャエル・エンデが「エンデの遺言」のなかで指摘していることである。

「マネー」と「お金」は違う。お金というのはパン屋さんでパンを買うお金。その意味するところの一つは、モノの価値を測るお金、もう一つの意味は、モノを交換する媒体である。お金は正当な労働の対価として生み出される。

ではマネーとはなにか。マネーはお金から出てきたものではあるが、元のお金とは姿を変え、投機の為に使われるものと指摘する。実物経済に存在するものがお金であり、実物経済を離れてIT金融市場にのみ存在するものがマネーと云ってもよい。  にもかかわらず、実物経済規模をはるかに凌駕する規模の市場を持つに至っている。

リベラリスト:内橋克人氏は茫猿が尊敬する論客のひとりである。1932年生まれという年齢のこともあるのだろうが、なによりもネオリベラリスト全盛の昨今だから、マスコミに登場してくることは少ない。でもたまに彼の発言を耳に目にすれば、日本の良心はまだまだ健在だと思うのである。

昭和から平成にかけてのバブル崩壊後に、「鄙からの発信」はバブルに加担した鑑定評価について、真摯な反省を伴う検証がなされなければならないと述べたことがある。

バブル荷担の反省《1999年2月》と「如何に応えるか」《1999年3月》がその記事である。今読み返してみても、大きな違和感は無い。それは「鄙からの発信」が不変のテーマとしてきた「鑑定評価格はザインかゾルレンか」という問いにもつながるものである。また先進諸外国の地価総額とGDP対比率が「1.0」に近似して推移しているのに比べて、日本は「2 〜 3」と高く推移していることについても確かな検証がなされなければならないと、今も考えている。

日本経済における地価や地価総額の位置付けについて根幹的な検証が等閑にされてはいないかと危ぶむのである。長く続いた地価下落に倦んで地価上昇を是とし期待するところに、バブル現象への警戒心が薄れてはいないか、適正な在り処を探求する心を無くしてはいないかと危惧するのである。

折しも、鑑定評価・土地残余法収益価格の試算において、土地建物収益のうちから建物に帰属する額を判定する上で、建築費の高騰が建物へ配分する収益を増額させ土地に残余する額が減少してしまうと云う悩みが聞かれた。土地残余法収益価格と土地比準価格が乖離すると云う問題である。 短期的な建築費高騰が、長期的な残余法土地収益価格の試算を狂わせているという現象である。 これは短期的《であるかもしれない地価高騰》地価上昇と短期的《であるかもしれない》建築費高騰の相克でもあろう。価格と利回りと云う本質論も含めて、地に足をつけた検証が求められていると考える。

鑑定評価の本来的な目標は、「情報が非対称的であり、取引当事者の恣意性に左右され易い不完全な市場に代わって、適正な価格の在り処を探求する」ことであった。ファンドキャピタルに攪乱される市場《情報が非対称的であり、プレイヤーの投機的恣意性に左右される市場》を追認することでもないし、溢れるマネーに誘導される市場を追認することでもなかったはずである。 ましてやデフレ脱却を至上命題とするアベノミクス政府の意に添うことでもなかった。

正常価格概念がゾルレンからザインへと大きく変わり、鑑定評価制度創設以来続いたこの論争には終止符が打たれた今となっては、出し遅れた証文ではあろうが、それでもガリレオではないけれど、この「ザインとゾルレン」のはざまを悩み続けてこそ不動産鑑定士であろうと考えるのである。

《追記》 良い本というものは、年月を経ても輝きを失わないものだと思わされている。「悪魔のサイクル」、「消尽の世紀の涯に」もそうであるが、長い時間を経て再び手に取った「面々授受」もその一つだと考えている。 記し忘れてはならない、藤沢周平の書籍や池波正太郎・剣客商売シリーズも輝きを失っていない。

 

 

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