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そうか、もういないのか

12/02 17:40 父が97歳で亡くなりました。 五月に母に先立たれたあとは、しっかりしなければという高揚感からか比較的元気でしたが、夏半ばから高齢者特有の粗相も多くなり、畑に出ることも少なく日がな机の前に座っていました。それも居眠りしている時が多かったように記憶します。 11月に入って、食事の量がしだいに減り、粗相の数は増えました。 病院での検査を勧めましたが本人が承知しないので、トイレのバリアフリー化工事などを行っていたのですが、自力歩行で自室から茶の間まで歩くのも大儀そうになったので、母の主治医に往診を願ったのです。


往診の診立ては気管支炎(肺炎一歩前)とのことで、点滴をしたり投薬をいただいたりしたのですが、往診をいただいたのが午後一時、その日の午後七時半には亡くなりました。 かねてから糖尿病や心臓に持病があり、風邪を一番心配していたのですが、父は百までは頑張ると意気軒昂でしたから、気楽に構えていたのがあだとなりました。

昼前に茶の間で車イスのまま、一椀の味噌汁と湯飲み一杯の酒を交互に飲んで自室のベッドに戻り、午後には先生の往診を受け、介護マネージャーと和やかに会話していました。 夕食の支度をする前にイビキをかいて寝ているのを確認してから、その一時間後に先に逝った妻のもとへ、誰に看取られることもなく静かに旅立ってゆきました。 顔に苦悶の様子も、着衣に乱れもなく、母と同じように穏やかに旅立ったと思われます。 二日前に搬入していただき二夜を過ごした電動ベッドも、前日に申請し仮契約した介護訪問も、すべてが無意味なものとなってしまいました。

今は、茫猿ひとりとなった茅屋に母の遺骨・遺影と並んで父の遺骨・遺影を安置してから、縁側に座りそとを眺めていますと、藪のなかにいるだろう鳥たちも屋敷のあるじの旅立ちを悼んでいるのか、常の囀りが聞こえてきません。
父が長く日記を付けていたのは知っていたのですが、開いてみることも無かったのがアダとなりました。 先ほど部屋を片付ける際に最新の日記帖を開いてみたら、11月半ばから字が弱々しく乱れ始めており、11/28以後は空白です。 字の乱れに早く気が付いていればと、とても悔やまれるのです。

「ひとりで二人をよくぞ介護した。」と、多くの方からねぎらっていただけるのですが、特に辛かったとも大変だったとも思えません。 母の時は最後の一週間を連休中の息子達が助けてくれましたし、父の場合は寝たきりになってから三日もありませんでしたから、疲労を感じることも無かったのです。 ほぼ十ヶ月のあいだ、炊事、洗濯、諸々の後始末などに明け暮れたのですが、楽しく明るく過ごせたと思っています。 また医師や介護ヘルパーさんをはじめ多くの方に助けて頂きました。

母の時は覚悟の一週間でしたから、大きな喪失感を感じましたが、父の場合は百までは生きるという父の言葉を頼っていましたし、正月過ぎまでは大丈夫とも、まだまだとも思っていましたから、今とても大きな虚脱感を感じています。 母屋に行って母の部屋を覗いても、父の部屋を覗いても、誰もいないガランとした部屋ばかりです。 両親に敬意を表して正信偈を読みあげましても聞く者とておりません。 読経のあとに見まわして、「そうか、二人とも、もう何処にもいないのか。」と、ひとり呟く茫猿です。

《追記》 長く教師を勤めました父の、若い頃の教え子・M.H様から鄭重な弔電をいただきました。 披露させていただきます。(合掌)

故彌太郎様には小生若い頃からいろいろとお世話になり、思い出は尽きません。小生が今日あるのは彌太郎先生に数々の人生の生きる指針をいただいた事です。
中でも中学の頃頂き今でも手元にある[参考物理学]は、小生が技術者として生きるもとになったかけがいの無い本です。
有り難うございました。


《追記Ⅱ》
11/30にインプラントの手術を2本も受けたばかりでしたから、まだ顎が腫れています。通夜、葬儀、収骨のあいだは痛みを忘れていましたが、儀式のすべてが終わりました今は、鈍い痛みを味わっています。 インプラント2本分を償却するまでは、健康でいたいと願ってもいます。

《追記Ⅲ》 10.12.07 何やらかにやら諸事後始末をしてから藪を歩いていましたら、万年青が赤い実をつけていました。

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