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言論の自由は誰のものか

 核保有に関する議論について、とても容認できないことがある。それは「核について議論をするのは自由であり、自由な議論は封殺できない。」という誤った見解の横行である。


 言論の自由が保証されるべきなのは云うまでもないことである。最大限に保証されねばならない。ところが、自民党中川政調会長、麻生外務大臣、そして安倍総理が云うところの「自らの、言論の自由論議」は容認できない。
 憲法が保障する言論の自由とは、国家権力が「言論の自由」を侵してはならないと云うことなのである。「憲法第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」ここに保証される言論の自由とは国家権力が国民に対して保証することを意味している。
 即ち、言論の自由とは国家が国民に保証するものであり、現に国家権力を行使する側に位置する内閣や与党の枢要人物が「自らの言論の自由」を振りかざし強弁すべきものではないのである。政治家が云うとすれば、せめても野党の側が云うべきものである。
 ここに論理の履き違えというかすり替えがある。彼等は一見して反対できそうにない「言論の自由」という御旗をかかげて「核保有議論」を行おうというのである。或いは核保有論議アレルギーを除去しようと云うのであろうか。それとも非核三原則形骸化をねらうのであろうか。決してそうではあるまい。
 彼等はそれほどの愚か者ではない。綿密な計算が背後にあると考えてよかろう。即ち、核保有論が外交的にも軍事的にも非現実的議論であることは百も承知の上であろう。それ以前に、議論すること自体がもたらす影響の大きさやその無意味さもよく判っているのであろう。では、それでもなぜそのような無意味な議論の引き金を引こうとするのか、それは彼等日本ネオコン主義者の考える「本当の目標は本能寺」にあるからだろう。
 つまり核保有議論云々は、防衛庁の省昇格問題、自衛隊合憲化、海外派兵問題、教育基本法改正問題等々の右旋回的議論を容易にするための露払い地均し論なのであろう。考えてみるまでもないが、政府与党の要職にあるものの議論を誰が掣肘するというのであろうか、笑止千万なのである。政府与党の中枢に座する者は自らの発議について謙虚でなければない。それにつけても、このような議論のすり替えや履き違えを見逃すというか、何も言及しようとしないマスコミの怠惰、もしくは迎合は目に余るものがある。
 平たく云えば、過去に「核保有合憲論」や「国防義務論」を唱えた人々が、政府要職に就任した今また、「核保有議論を行おう」といえば何を目指そうとするのかは誰が考えても判ることである。そのよな国内的にも国際的にも百害あって一利無い議論を何故今頃に行おうというのであろうか。北朝鮮が行った無益の核実験に触発された過剰反応は愚かというよりも幼児的であり退嬰的である。
 同じ文脈につながる言辞に「愛国論」がある。三島由紀夫は「愛国」という言葉が嫌いだったそうな。「忠君愛国」と一括りになる言葉で戦地に赴かされた多くの人々のことを考えれば、いまさらに「愛国」という言葉を引きずり出す人々のぶしつけさがおぞましい。

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