廃墟鑑定士という用語法が何処かに存在するという訳ではない、茫猿の造語である。 意味は読み下したまま、即ち廃墟を鑑定評価する不動産鑑定士ということである。 廃墟のような不動産鑑定士でも、廃墟に存在する不動産鑑定士でもない。 証券化対象不動産・鑑定士とか森林鑑定士と同様に、廃墟評価が得意な不動産鑑定士と解していただければよい。
廃墟評価を専門に行う不動産鑑定士なんてものがいるのかと思われるだろうが、その通りでありそんな鑑定士は存在しない。 でもある小説を読んでいて、廃墟の経済価値を評価する鑑定士がいても良いのではと茫猿は思ったのである。 廃墟の価値、”この場合は廃墟の直截的経済価値という意味ではなく、廃墟の社会的価値あるいは文化的価値という意味であるが”、廃墟らしい廃墟ほど価値があるという意味でその価値を評価するという、何やら言語明瞭、意味不明なことを考えたのである。
廃墟鑑定士という造語は、廃墟建築士からの連想である。 廃墟建築士とは09/01に刊行された小説の題名である。
『廃墟建築士(三崎亜記著:2009.01.30集英社刊)』
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、廃墟というものは利用されていた建物や施設が、いつか利用されなくなり、住む人も無く放置されて朽ち果てた結果である。 建物、施設などが使われなくなったとしても、他用途に転用され、適切な維持管理が続けられていたり、あるいは更地になっていれば、廃墟とはいえない。 跡地利用も難しく、管理を続けるのも困難な場合には、建物、施設などが荒れるに任され、歳月とともに朽ちて崩壊し、あるいは草木に覆われて廃墟化の過程が進行する。
久しぶりに大型書店を渉猟していた書棚に見つけた、建築士を含むこの題名に惹かれて購入し読んだこの小説はポエジーである。アイロニーではあるがシニックではない。 著者は小説の冒頭で廃墟を説明してこう云う。
「廃墟とは、人の不完全さを許容し、欠落を充たしてくれる、精神的な面で都市機能を補完する建築物です。都市の成熟とともに、人の心が無意識かつ必然的に求めることになった、『魂の安らぎ』の空間なのです。」
別の箇所ではこんな記述もある。 「廃墟を感じるには、時間軸と平面軸の尺度を自らの内に持つことである。」とか、「廃墟は時の経過によって醸成される。」である。
これ以上は小説を読んで頂くしかないが、著者がいう廃墟は”単なる文化遺産”とは異なる概念である。文化遺産は観光施設等として管理され維持保存されるものであるが、廃墟はただひたすらに放置され朽廃するにまかされる施設・建造物を云うのであり、そこに都市の癒しの場としての価値を認めるものである。 文化観の差といってもよいのである。
廃墟建築士はそのような廃墟を建築設計し施工管理する専門職業家を意味する、著者の造語である。他にも、「第一種廃墟」、「第二種廃墟」とか「みなし廃墟」、「偽装廃墟」などという造語もある。
数年前のマンション建築偽装事件にアイデアを得ている小説なのかもしれないが、偽装建築の域を出て、廃墟が廃墟であるがゆえに人に安らぎや癒しを与えるという真逆の価値観を示しているお話である。 廃墟建築の設計や施工管理を行う建築士があるなら、その価値判定を行う鑑定士があっても良かろうという連想が生まれたのであり、その価値判定の尺度はいかなるものだろうかと考えたのである。
使用資材の質と量、廃墟の程度、廃墟に至る定額あるいは定率的価値増分、周辺環境との適合あるいは融合の程度などなどと思いをふくらませたのである。 何よりも時間軸と平面軸の尺度を内面に持つという表現が好ましいのである。 真っ正直に不動産の経済価値判定ばかりに拘泥していると、こんな発想は生まれてこないであろうが、時にこのような妄想に遊ぶことも楽しいのではと思う茫猿なのである。
『悼む人:天童荒太著・文芸春秋社刊』
最初はとても読みにくい本であった。 出だしがなにやらカッタルイ感じだから、積ん読状態でしばらく放っておいたのだが、ある本に触発されて読み始めたら一気に読み終わった。
悼む人を待っている死者、”愛は執着である、執着を放すのも愛である”などという表現で、生者と死者の関わりをいい、無意味な生など存在しないから無意味な死(死者)なども存在しないとも思わせる。 終末期医療や末期が近づいた縁者の送り方などを考えさせる物語である。
”生まれ変われるとしたら、きみから生まれたい”という文中の一節は、女にとって最大の讃辞だろうし、とても有効な口説き文句になるだろうと思うが、茫猿に使う機会は訪れない。
『悼詞:鶴見俊輔著・SURE社刊』
悼む人を再び読み始めさせた本である。 詳しくはこの書評をリンク引用する。 鶴見俊輔が悼詞を捧げた125人の人々の鶴見評にもなっている。 久野収や小田実もいれば赤尾敏もいるというのが面白い。
悼む人と逆だったのが「天地人」である。一気に上中下三巻を読み終わったが、隔靴掻痒というのが正直な読後感である。 相続争いを招いた上杉謙信仕置きの本意、兜の前立は愛(ここでは仁慈というような意味)だが、それと意地を貫いた直江状がどのようにつながるのか、何よりも大阪の石田三成方と奥州会津の上杉方との齟齬は当然に予見されたであろうに、その不首尾の書き方が浅いのでは、などなど直江兼続の美しい一代記に終始し過ぎていないのかと、読後感に乏しいのである。
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