普天間基地の辺野古移転問題は沖縄の抱えているすべてを凝縮していると考えている。菅官房長官が言う「粛々と進める」の背景に存在するもの、滲み出てくる「琉球処分につながる本音」というもの。 翁長知事が言う「辺野古の新基地は絶対に建設できない」という確信が何から由来するのか、それらを判ろうとすることは、日本の戦後を判ろうとすることであり、明治以後の近代史を理解しようとすることではなかろうかと考えている。
翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談冒頭発言をじっくりと読んで、しっかりと考えてみたい。自ずと安倍内閣の本音が見えてくるし、沖縄戦後レジュームの痛ましさも見えてくると思う。同時に”霞ヶ関”と”地方”の関係位置も見えてくるのではと思う。
2015.04.05 菅官房長官と翁長知事会談における菅官房長官の冒頭発言
《県民の信頼取り戻す》
2015.04.05 翁長知事と菅官房長官会談における翁長知事の冒頭発言
《粛々は上から目線》
2015.04.07 沖縄タイムスの社説
「民意を無視して建設を強行しようとすれば、むき出しの国家暴力が表面化し、辺野古移設の正当性は失われる。日米関係そのものが大きな痛手を受けるのだ。」
2015.04.07 琉球新報の社説
「辺野古移設に関し、日本政府は「決めたことは何が何でも進める」という姿勢だ。それが「日米同盟の強化」になると言いはやすが、当の米国はそう思っていないのだから、政府の弁はおよそ合理性を欠いている。 安保の負担を沖縄だけに負わせるのはもう限界だ。」
沖縄の民意は単一ではない。自民党沖縄県連は「辺野古容認」の立場であるし、知事選も衆議院選挙も「単一イシュー」で争われた選挙ではないから、選挙結果が必ずしも辺野古反対と云う民意を示すものではないという立場にある。安倍内閣と同様の立場である。
沖縄が辺野古移転反対、米軍基地反対一色でないことは予想がつくのである。 米軍基地用地の賃貸料を受け取る地主集団、米軍に雇用口を得ている集団、直接的に間接的に米軍の沖縄駐留から経済的利益を得ている集団が存在するのは事実であろうし、それらの集団にとって米軍基地以外の収入源を見つけるのは容易いことではないだろう。
戦後七十年の歴史とはそういうことであり、稼働後四十年を経た原発問題と通じる一面が存在する。 米軍基地反対とか原発再稼働反対を言うのはそれほど難しいことではない。しかし、米軍基地無き後、原発無き後の地域経済を見通すと云うよりも、激変緩和軟着陸を促す処方箋が難しいのである。
そういう文脈のなかで、翁長知事のこの発言は熟読玩味したいのである。
尖閣も、日本固有の領土でありますし、守るというのも結構でありますけどしかしながら尖閣で何か小競り合いがあると、いま石垣島に100万人の観光客が来てますけども、小競り合いがあったら、すぐ100万観光客が10万くらいに減るという危険性も十二分に持っているんですね。
ですから私はそういう意味からして、ぜひとも沖縄は平和の中であって初めて沖縄のソフトパワー、自然、歴史、伝統、文化、万国津梁の精神、世界の懸け橋になる、日本のフロントランナーとなる。そういった経済的にもどんどん伸びていって、平和の緩衝地帯として、他の国々と摩擦が起きないような努力の中に沖縄を置くべきだと思うのであって、米軍基地があったりすると、最近はミサイルが発達してますので、1発2発で沖縄が危なくなる。
こういったことなども考え合わせると、米軍もアメリカももうちょっと遠いところに行きたがってるんじゃないかな、と。日本の方がかえってそれを止めて抑止力という形でやっておられるんじゃないかという疑問が大変ございます。
こういう問いかけをすれば、「それは素人談義」とか「床屋政談」と揶揄されるのを重々承知の上で、普天間基地問題を云えば。
1。世界一危険な基地と云う認識が安倍内閣にも米国政府及び米軍にも共有されているのであれば、先ず行うべきは普天間基地の即時機能停止であろう。後講釈を封印するべく先ずは基地の閉鎖が第一であろう。
2。普天間の機能を何処で代替するのかといえば、グアム移転、嘉手納基地併用、横田をはじめとする国内の基地で代替機能を引き受ける。軍人の「ホシイホシイ病」でなく、日本の安全保障上、真に基地機能が必要であれば、国内の何処かへ移転できるであろう。
3。翁長知事が云うところの「平和の緩衝地帯としての沖縄の存在」は、そのまま日本の存在なのであり、戦後七十年のあいだ営々として築いてきた日本のあり方ではなかったか。
《注》”霞ヶ関”とは、実態があるようで見えない日本の統治機構を云い、”地方”とは其れ等に統治される側を指している。
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