6/23 沖縄と6/25 朝鮮半島

 6月23日は沖縄戦が終結してから75年目の日である。1945年6月23日、沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった事をもって、この日が沖縄慰霊の日(沖縄終戦の日)とされている。この日、安倍総理は沖縄全戦没者追悼式にビデオメッセージを送り、このように述べた。

『沖縄の誇る豊かな海と緑は容赦なく破壊され、焦土と化しました。(中略)沖縄の方々には、永きにわたり、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいております。この現状は、到底是認できるものではありません。(中略)引き続き、「できることはすべて行う」との方針の下、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしてまいります。』

 豊かな海と緑が容赦無く破壊された戦後も、基地の集中という負担が強いられてきた沖縄の現状は到底容認できるものでは無いと、慰霊の日が巡り来たるごとに述べられて何年が過ぎたことやら。今年の慰霊の日も総理の慰霊の辞が虚しく響く。 そして翌々6月25日は、その5年後の1950年に朝鮮戦争が勃発した日である。

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この表題の記事はこんな記述から始まる。「38度線に集結した北朝鮮軍が韓国側を砲撃し、南下を開始したのは、1950年6月25日のことである。朝鮮戦争勃発から70年。コロナ禍のただ中にあろうと、絶対に忘れられることがあってはならない同時代史だ。」

 朝鮮戦争は朝鮮半島に暮らす人々に甚大な被害と塗炭の苦しみをもたらしたが、日本海を隔てた太平洋戦争敗戦後のデフレに喘ぐ日本には、戦争特需をもたらした。当時の日銀総裁一万田尚登は「神風」だと言い、石川一郎・経団連会長は「天祐」、永野重雄(後の日本商工会議所会頭)は「干天の慈雨」と言ったと前掲の記事は伝える。

 戦場に一番近く位置し、米軍が駐留する基地の所在する日本は、戦場背後の兵站基地となった。戦争特需は鉄鋼や機械など様々な産業にまさに干天の慈雨のごとく戦争景気をもたらした。朝鮮戦争特需という新聞の見出しを今も記憶している。

 多くの大企業社史が、朝鮮特需に言及しているなかで、トヨタ自動車は公式HPで、「当時は経営危機に陥っていたが、朝鮮特需を契機に業績は好転し、新たな一歩を踏み出すことができたのである」と、述べている。

この記述がとても気になった。あのトヨタが「朝鮮戦争特需」を一方的な企業盛衰視点から記しているのかと気になったのである。そこで、トヨタHPより社史を検索してみると、「トヨタ自動車75年史 第1部 > 第2章 > 第7節 > 第2項 朝鮮戦争による特需の発生」に、間違いなくその記述が存在した。

 記事はこう結ばれている。「トヨタ自工は、ドッジ・ラインの影響で深刻な経営危機に陥り、人員整理にまで手をつけなければならなかったが、朝鮮特需を契機に業績は好転し、新たな一歩を踏み出すことができたのである。」

 朝鮮半島並びに朝鮮戦争と日本が不即不離の関係にあることは論を待たないことである。日本と朝鮮半島の歴史は1873年(明治6年)の征韓論、そして日清戦争(1894〜1895年)を経て1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて日本が李氏朝鮮・大韓帝国を併合して統治下に置いた。この日本統治は1945年9月まで続くのである。

 日本の敗戦後の朝鮮半島は38度線を境にして、北は旧ソ連軍、南はアメリカ軍が分割占領統治し、1948年になって大韓民国(南)および朝鮮民主主義人民共和国(北)が樹立された。そして、1950年6月25日になって38度線を越えての北朝鮮の南下が始まったのである。

 北朝鮮の日本人拉致問題、韓国の今に続く戦後処理問題その他多くの問題が今も日韓、日朝間には存在しているが、その発端を問えば、遠くは1910年の日韓併合に始まるし、近くは日本の敗戦後の戦後処理問題、そして朝鮮戦争に多くの原因が上げられよう。

そのような歴史認識からすれば、朝鮮戦争特需景気を”神風”とか”天佑”などと手放しで礼賛するのは如何なものであろうかと考えるのである。日本が特需景気に浮かれている頃、朝鮮半島では砲弾の下で多くの人々が逃げ惑っていたのである。

 見方を変えればという考えが存在する。彼岸と此岸では物事の多くは違って見えるのである。日本からすれば朝鮮戦争特需であっても、朝鮮半島側から見れば自分たちの犠牲の上に作られた好景気としか見えないことであろう。

 自虐史観という表現がある。殊更に日本の負の部分を強調する必要はないけれど、見方を替えてみる、己の側からばかりでなく相手側に立つ位置を替えて眺めて見るという考え方はとても大切だと考える。

 トヨタ自動車にしてからが、「朝鮮特需を契機に業績は好転し、新たな一歩を踏み出すことができたのである。」と表現する。この表現を戦果に苦しんだ朝鮮民族の側から読んでみれば如何なものだろうかという視点が欲しいのである。

2012年の秋に今の場所へ移植して8年目の沙羅双樹である。新しい土にようやく馴染んだとみえて今年の花付きは例年になく多い。

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