サイトアイコン 鄙からの発信・残日録

還り来る桜、還らぬ人

長く欠けることの無かった友からの賀状が今年の正月には届かず、もしやと懸念しつつ問い合わせたことが現実のものとなった。

『今年は賀状が届かなかったので、寒中のうちにはお伺いをと考えていながら雛祭りになりました。 寄る年波ゆえに賀状は打ち止めということであれば宜しいのですが、何かお変わり有りませんか。』と、問い合わせたハガキに半月もして、彼の弟からの訃報が届けられ、また一つ先に立たない後悔にとらわれている。

1959年4月の大垣北高校藤江校舎で、同級生となったS谷との付き合いが始まった。翌1960年の夏頃だったと記憶するが、彼が罹病入院して休学し、その後に私が遊学して岐阜を離れたこともあり、付き合いは賀状の交換だけとなっていた。  私が岐阜へ帰ってきていつの頃かは忘れたが、間遠ながらも彼との付き合いは復活した。

彼が一年遅れか二年遅れで高校を卒業し、幾つもあっただろう曲折を経て某業界紙の記者となり、編集長を経て退職したこと、名前を変えたこと、そんな暮らしぶりの概略は知っているが詳しく聞いたことはない。

《蕾ふくらみ色づいた枝垂れ桜》

間遠なことではあったが、私と彼の二人だけでなく北高一年のクラスを同じくした信吾なども時に交えて、柳ヶ瀬で何度か盃を交わした。飲まない彼のことであるから、静かに笑みを浮かべて席を伴にすると言ったほうがただしいだろう。私が両親の介護のために岐阜の事務所を引き払い、鄙里に引き篭もってからはそんな付き合いも途絶えていた。

賀状には「名古屋に出てきたら連絡をくれ」と書き添えてあったが、私が名古屋に出ることも無かった。 2016年5月に北高二年当時の悪仲間・河原君の病気見舞いを兼ねた集まりを計画した。彼と一年のクラスを同じくした信吾や草刈も参加する予定だったからS谷君にも声をかけたところ「喜んで参加する」との返事が届いた。 「草刈君はとても懐かしい。彼が手製のラジオを持って病院を見舞ってくれたことを今も憶えている」とも伝えてきた。

《開花も間近い大島桜》

でも残念なことに、あるセミナーの講師依頼と日程が重なり、彼は参加できなかった。当日の写真とそれぞれの住所を皆に交換しておいたところ、翌2017年の正月に草刈君からの賀状が彼のもとに届いた。その報せが私に届いたのは 、さらに翌年2018年の賀状に記された「去年の元旦 草刈くんが初めて賀状をくれました」という添え書きだった。

《たわわに咲いた木瓜の花》

その後は彼に一度会っておかねばと思いながら果たせないうちに、2018/10 彼は亡くなった。 常日頃、今日のことは今日のうちに明日あると思う仇し心と、思いながらの手抜かりを今更に悔いている。

《スミレの花》

彼は「誰にも報せること無く、存在の一切の痕跡を消去せよ」と遺言して逝ったそうです。とても悲しい遺言にも思いますが、生あるものが死ねば一切は無に帰するのが定めと思えば、それも宜なることかなとも思われます。生あるものの定めとはそうであると知りつつも、その人の思い出を共にする人が”此の世に在るうち”は、それらの人々のなかに彼は生きているのだと思いつつ温顔を偲んでいます。

桜の春はまた巡り来たろうとしているのに、人は逝って還らない。還らない人の想い出のみ増えてゆくごとに、癒やしようもない寂しさや侘しさも身にまとわりついて離れない。そんな想いを分かち合う友が、また一人いなくなった。様々なこと思わされる鄙桜ですが、この春もまた新たな思いが加わります。

 

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