山法師咲く朝に

現役を退いてから十年、生活習慣は以前から朝型ではあったが、消灯時間午後九時の入院生活はさらに朝型に変えてしまった。朝は四時前に起床し、顔を洗いコップ一杯の水を飲み焙じ茶を喫する。水を飲むのは大腸の蠕動運動を促すためである。脳梗塞を発症してからトイレでの過剰なイキミ行為は厳禁であるから穏やかな排便は必須アイテムなのである。

昨日は八回目の母の祥月命日だった。五月に母の旅立ちを見送り十二月に父を逝かせた当座は、あの喪失感を埋められる日がやってくるとは思えなかった。三十年余に及ぶ父母と私の三人暮らしが、一人暮らしになってしまった落差は如何ともし難かったのである。それがいつの間にやら穏やかに常と変わらぬ命日を過ごせるまでに落ち着いた。去る者日々に疎しである。まだ八年前のことなのに随分と昔のことに思える。

その後、孫の誕生などを機会にして家人とは長年の別居生活を解消し今に到っているのだが、離れに暮らす朝型生活の私に対して母屋に暮らす家人は午前二時か三時頃に就寝(しているようである)、起床は朝十時〜十二時である。何かの拍子に十時前に彼女の眠りを破ろうものななら、恐ろしく機嫌の悪い対応が返ってくる。今や我が家は二十四時間どちらかが起きている二十四時間対応暮らしである。

今朝は雨上がりの葉陰に白い花がのぞいていた。立夏の頃にふさわしく”山法師”が咲いたのである。いつものごとく心和ませるひそやかに爽やかに咲く花である。

この季節は、芍薬の蕾ふくらみ、サツキも開く。
雨が上がれば防除作業も草刈も待っている。
・・・・・・・・・

季節は巡る、日は沈みまた昇る。2018年も三分の一が過ぎ去り、盛夏猛暑も近い。メールなどでお見舞いを頂いた方々にお返ししたコメントを幾つか再掲しておく。

「寄る年波には勝てず、誰しもが辿る道に我も到ったに過ぎないことです。記事に記すとおり、隣の病床の患者を眺める余裕があったと云うよりも、今回は躱したものの次は危ういぞと囁く声を聞いていました。」

「ぼちぼち人並みに加齢現象が起きただけのことです。ご心配なく、終活を怠りなく努めます。」

《父母の霊前に向かい、また一歩あなた方に近づきましたと語りかけている自分が此処にいる。父母にも弟にも娘にも、博一や村北にまた会えるのなら、死ぬもの悪くはないと思っている自分が此処にいる。》

《2018/05/11 08:20追記》
五月晴れ、快晴である。メタセコイア、クス、イチョウ みな青さを増している。笑う時季はすでにすぎ、いまや蒼翠にして滴るが如くである。

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山法師咲く朝に への1件のフィードバック

  1. 丸山 正樹 のコメント:

    久しぶりに鄙からの発信を拝見しました。
    お体第一に先見性のあるご意見楽しみにしております。

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