雪印、三菱、そして

 いわゆる特定価格問題その他については、随分と頑固なことを申して
参りました。述べてる本人も随分と疲れましたし、もう止めます。
鄙の浮流人(風流人にはとても為れません)なのかと思っていたら、
随分と依怙地な爺様だと思われるのも、つまらないことですし。
「鄙からの発信」も、硬派路線は休憩して、しばらくは軟派路線に転じ
ようと考えています。
 ところで、頑なついでに、もう一つです。(雀百まで踊り忘れず)
雪印・三菱・そして世の中の組織というものについてです。
 雪印も三菱も、報道されていない、色々なことがあるのでしょう。
1年ほど前の東芝Web事件でも、今になって実相は随分と違う話が流
れてきています。(ボタンの掛け違いの原因は、別のところにありとい
う話です)
水に落ちたソゴウだって、随分と叩かれているし、色々な話がマスコミ
を賑わせています。10年前にはヨイショをしてた某経済誌もあったの
に。 だから、私の感想も実相とは違うのかもしれない。
 ですけど、いつも想うのです。企業であれ組合であれ公益法人であれ
組織というものは誕生させたときの論理(目的その他)は崇高なものです。
崇高なものでなければ発展も持続もあり得ないものです。
 しかし、一端生まれた組織というものは、自己増殖を始め、いつしか
初期の目的や社会への貢献あるいは遵法精神などというものが、片隅に
追いやられ、いつしか企業の論理や業界の論理を優先させてゆきます。
 それは、組織という生命体の持つ、ある種の必然性みたいなものです。
我々生命体の持つ遺伝子の固有の論理(遺伝子の存続を優先するために
は個体としての生命体を滅ぼすという仕組み)と、生命体の個体保存優
先の論理が時に異なることがあるように、組織の構成員の個々の論理と
組織の論理が齟齬を来すことがままあるというよりは、往々にして見ら
れることが多いのです。
 だからこそ、常に原点に戻るという意識覚醒が必要なのであり、常に
組織の解体的蘇生が必要なのだと想います。
成功とまでゆかなくても、安定を得た組織は既得権を生じるものであり、
そこには既得権を守ることにより利益を得る一派が生まれます。そこに
は、内向きの論理しかありません。いわば閉鎖的村社会の論理です。
 安定を捨てて、荒野に向かうなど、歌やドラマの世界ならいざ知らず。
現実の浮き世においては、本人だけでなく周りの人々も許してはくれま
せん。でも矢っ張り想うのです。既得権を捨てないまでも、そこに安住
しないという気構えだけは失ってはならないと。
 「IT革命(本当は革新でしょうが)に慌てて対応する必要はないとか、
IT革命は英語圏の陰謀であり、日本語圏では右往左往する必要はない。」
という意見やIT革命の本質を見失った論議が根強い。それらの意見が、
変革を怖れて既得権を守ろうというのでなければ幸いであるのですが。
 周回遅れの日本のなかで更に周回遅れにならないように、できること
から、着手してゆくという姿勢が求められるのではなかろうかと、しき
りに思います。鄙にいては判らないこともあるでしょうが、鄙にいるか
らこそ見えるということもあるのです。

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