誤った郷土認識をただす

【只管打座・・誤った郷土認識をただす・・04.05.04】
 某サイトに「ネズミにもコウモリにもなる岐阜県人」と題する一文が半年近く前から掲載されている。
「ネズミにもコウモリにもなる岐阜県人」
http://www.kantei-gifu.or.jp/blog-archives/000077.html
 同記事の筆者は「岐阜県は壬申の乱から関ヶ原の戦いまで、常に戦乱の舞台となってきたために、岐阜県民の先祖達は「それぞれ権力者達に迎合して生き延びてきた」と云う見解に賛意を示している。
 次いで「岐阜県に来て一番こまるのは『建前と本音の落差が大きすぎる』ということです。」と云い。
 さらに「ともあれ、他県の人間からみると、「岐阜県人」は「殆ど信用されていない人間」のグループに入っていることは確かなようです。」とまで云う。
 また輪中については「或日、岐阜新聞を見ていたら「最近県民性の本が多いが、岐阜の輪中根性大いに結構」と論陣を張っていた或「エライサン」の文章をよんで、ビックリしたり、アキレたり・・。ヤッパリ岐阜(意味判る?)だと思ったね。」と揶揄する。
 この十把一絡論的一文について茫猿が、Web Site 上で反論するのは大人げないとも思うが、誤った歴史認識や郷土認識をただすためにも反論を掲載しようと思います。
 同時にかねてより、輪中人であることをサイト上で明らかにし、輪中人であることを誇りとする茫猿自身の輪中にかける想いも述べてみたいのである。
 茫猿が思うに、鼠&蝙蝠論者氏が論断するほどに、岐阜県人は建前と本音の落差が大きすぎる訳もなく、お上従属意識に凝り固まっているわけでもない。ましてや、「殆ど信用されていない人間のグループ」などでは、決してない。
『壬申の乱から関ヶ原まで』
 鼠&蝙蝠論者氏、あるいは氏が読まれた本の著者は、壬申の乱から関ヶ原まで、岐阜県というよりはその南部平野地域である美濃地方は数々の戦乱の舞台となったが故に、権力者に迎合して生き延びてきた結果として、ネズミやコウモリになって生き延びてきたと認識するらしい。
 この歴史認識は、全くの誤りである。
壬申の乱は皇位継承を巡る内乱であるが、大海人皇子(後の天武天皇)は美濃の国各務野地方の豪族「村国男依・ムラクニノオヨリ」を頼って兵を挙げ、大友皇子に勝利し即位するのである。戦場となって蹂躙されたのでなく、豊かな美濃平野の財力と武力に支えられたという方が実情に近い。
 その後も美濃地方は京都に近く、朝廷を支える有力な國の一つであったが、室町期においては土岐氏が著名である。婆娑羅大名として名高い土岐頼遠をはじめとして土岐源氏一族は室町期を通じて有力な守護大名であったし、美濃の国人が戦乱のなかで右往左往していたという訳ではない。
 関ヶ原の戦いは岐阜県のほぼ西端、新幹線で通り過ぎる山あいで起きた戦いであるが、僅か数日の戦いであり、しかも当時としては人里離れた山あいであったろうから戦乱の舞台には違いないが、庶民が権力者に迎合云々は筆が滑りすぎである。
 何よりも、尾張清洲に誕生した織田信長が何故に岐阜を目指したかといえば、豊かな美濃を制することが天下を制する近道と考えたからであろう。
これは美濃を制するというよりも、美濃の国力を背景にすることが「天下布武」成功の大きな因子と考えたからであろう。
因みに岐阜という地名は古来からのものではなく、信長が岐阜に居構え城を築いた時に、岐阜と改名したものである。当時は井之口と呼称されていた斉藤道三の城下を、天下布武を目指して中国・周の故事にならって岐山及び曲阜から岐と阜を得て岐阜と命名することに由来するものである。
 余談であるが、岐阜県士協会が25周年記念式典を挙行したホテル岐山は、この故事に由来するものであるし、岐阜市の紋章「井マーク」は井之口に由来するものである。岐阜は楽市楽座発祥の地であり、閉鎖的中世を打ち破る自由都市発祥の地でもある。
『江戸期の美濃地方』
 江戸期において美濃地方は幕府により分断統治されてきた。
今は岐阜市の一部である加納地区は、家康の娘婿である奥平信昌が拝領し、加納城を築城し治めている。家康は重要拠点として美濃の一部を与えたが旧岐阜城の再興は認めていない。加納城は中山道の宿場でもある。
 また奥平氏が三代で移封された後は三万石程度の譜代大名の城下町として明治を迎えている。関ヶ原に近い西濃地方に位置する大垣市は譜代大名戸田藩の城下町であり石高は十万石である。
 ちなみに、大垣市は俳人芭蕉の「奥の細道」結びの地としても著名である。
 これ以外の美濃地方は旗本領や尾張藩飛び地、幕府天領等に細かく分けて、江戸期を通じて分断統治されている。総じて肥沃であり一揆がおきた訳でもなく穏やかに過ごしてきたと云える。また兵を養うに足りるほどに肥沃であり、西国を望む要衝であるからこそ分断統治がなされたともいえる訳である。
『輪中について』
 輪中や輪中根性についても誤った認識に基づいた悪意さえ感じる表現がなされている。実は茫猿はかねてより明らかにしている通り、木曽三川のうち長良川と揖斐川とに挟まれた輪中地帯に生まれ今も居住している。
 『鄙からの発信』の片隅に愚息が調べた森島家の由来なる一文をリンクしているが、そこには輪中に生きてきた我が家の祖先のことも記されている。
 我が住む町は安八郡輪之内町である。安八という地名は日本書紀に出てくるほどの古い地名である。(輪之内町自体は往事は水の底または沼地や湿地で構成され所々に川中州が散在していたと考えられる。)
 輪之内町は1954年に大藪町、福束村、仁木村が合併して誕生した町である。
輪は合併三町村の融和を願い、水害と闘い肥沃な美田を築いてきた輪中の歴史に誇りを持って輪之内と名付けたものである。
 尚、輪中は輪之内町の福束輪中だけでなく、現在の岐阜市、大垣市、羽島市、海津郡、養老郡、羽島郡の随所に存在するものであり、木曽三川下流域では珍しいものではない。勿論のこと、河川改修が進み都市化が進行した結果、古い輪中堤が住宅団地や工場になったしまった地域も多いから、若い人や転入者は輪中や輪中堤を意識したこともないであろうが。
『根性・・広辞苑』
 文脈からすれば、筆者は否定的に輪中根性と云っているようである。
先ず、根性について広辞苑をひもといてみる。
こん‐じょう【根性】 その人の根本的な性質。こころね。しょうね。
「根性をたたき直す」という用法がある。
困難にもくじけない強い性質いう。「根性がある」
鼠&蝙蝠論者氏が推奨する大阪では「ド根性」という用法があるが、これは決して否定的な用法ではない。ある種の褒め言葉でもある。
『輪中並びに輪中根性について』
 文末に列挙するURL中では、輪中根性について、こう述べている。
 中世末に形成された輪中の村連合は、治水だけでなく治安にに至るまでの共通利害を守る自治的組織であって、強力な政治権力をも支配させない排他的ともいわれる輪中根性の伝統は近世にも受け継がれていった。
 つまり、水害から村を守る自治組織は、我が村意識故に一面では排他性を持つものではあるが、頭から否定されるものではなかろうと、茫猿は考える。
尚、岐阜県ではないが、織田信長が苦戦した長島一揆は木曽川の下流域長島輪中(現三重県)に起きるものである。
 商業の街、大阪を好まれる鼠&蝙蝠論者氏は、人生の基軸を喧噪渦巻くゲゼルシャフトに置かれるのでしょう。
しかし、ゲゼルシャフトの論理で、輪中地帯「ゲマインシャフト」を壟断されるのは、其処に居住し其処を愛する者にとっては、何とも耐え難いものです。
 茫猿は、ゲゼルシャフト的(利益社会的)在り方には少なからぬ違和感を感じています。とは申しても、ゲマインシャフト(同志結合社会的)への郷愁に浸ってばかりもいられずという処でしょうかね。
このあたりは、茫猿が何故に鄙にこだわりをもって、『鄙からの発信』を主宰しているのか、駄文を発信し続けているかをお読み頂き、御理解を願いたいも
のです。  「鄙に何故こだわるか」は以下のURLよりお読み頂けます。
http://www.morishima.com/cgi-bin/np_boen/newspaper.cgi?action=view&code=985100242
高須輪中を紹介するサイトです。
 http://homepage1.nifty.com/fuufuyuuyuu/sub5/6kaizutyou.htm
輪中の歴史について語るサイトです。
 http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/rice/noubi/
同じく輪中の歴史について語るサイトです。
 http://www.gix.or.jp/~naga02/nagara/japanese/01_yakuwari/history_04.htm
※閑話休題
 木曽三川下流域に住み、伊勢湾台風やS51.9激甚災害など、水害への恐怖を体験として共有する五〇代以上の人々は、治水に大きな関心を持っています。
長良川河口堰や徳山ダムについて、上流・中流域の人と必ずしも共通認識が持てないのはそのあたりに起因するでしょう。
 伊勢湾から木曽三川を経由し、関ヶ原を閘門方式で通過し琵琶湖から日本海に至る運河が検討された歴史もあるのです。今も昔も関ヶ原は要衝なのです。
 いずれも暴れ川であり中流域から河口付近にかけて離合集散を繰り返していた木曽三川は、宝暦治水により分流されました。本当の意味で完成するのは明治になってからですが、宝暦当時に幕府の命でお手伝い普請にかり出され、故郷を遠く離れた美濃の地で切腹して果てられた薩摩藩家老平田靱負殿はじめ薩摩の方々を、治水神社や近郷の寺々にお祀りして祭礼を欠かさないのも美濃人です。
岐阜と鹿児島は今も姉妹県として交流が続いています。
治水神社
http://www.town.kaizu.gifu.jp/kanko/kanko_01/midokoro_01/tisui_jinja.asp
 新撰組を庇護し、幕府に殉じて戊辰戦争を戦った会津藩九代目藩主松平容保公は、尾張藩の支藩である高須藩(輪中地帯、海津郡海津町高須)より出て会津藩八代目養子となった方です。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/jinbutsu/mkatamori.html
・・・・・・いつもの蛇足です・・・・・・
 不思議ではないでしょうか、幕末に新撰組を育てたのは松平容保ですし、明治維新のおりに東北の地で戦った、薩摩と会津はともに美濃地方のそれも輪中地帯と浅からぬ縁を結んでいるのです。
 輪中根性とは蔑まれたり、否定されたりするモノではなくて、自らを律し、自らを助すく、そして輪中に住む者同士が共助する心根を云うものであると茫猿は考えます。その最たるものが助命壇であり水屋なのです。それらは輪中に住む者皆を等しく助けるためのものです。
 輪中の特性上、水争いもあったことでしょう。洪水の時に一つの輪中が決壊すれば、残りの輪中は水害を免れる可能性が高いことも事実です。
だからこそ輪中に住む人々は己の村が位置する輪中に命をかけもするのです。
 この輪中を、水害に無縁な人々が戯れに揶揄するのは如何なものでしょうか。
 建前と本音についても異論があります。
建前と本音が分離してゆくのは、一種の文化的発展段階におけるプロトコルの成立と云えましょう。考えてみれば、本音ばかりではギクシャクしますし、何よりも本音=社会的規範を無視した本能的欲求とも云える訳であり、性欲、食欲、物欲、支配欲などを本音のままにぶつけ合わないための建前であるとも云えるのです。
 本音をオブラートに包むのが建前であり、本音を文化的高みに止揚させるのが建前と云えるのではないでしょうか。別の云い方をすれば、建前という理想論あるいはアルベキ論的規範に守られていることにより、人は社会的動物で在り続けられるのではないでしょうか。
 勿論のこと、建前のための建前、騙しのテクニックとしての建前などは、茫猿の最も嫌うところではありますが。
建前を語る時に「京のぶぶ漬け」という言葉があります。
客が暇(イトマ)を告げる時に、主人が「まあー、そうそう急がれずとも、ぶぶ漬けでも如何ですか」と誘う、例のお茶漬けの誘いのことである。
 京都ならではの優雅なプロトコル(建前)だと思います。また、これには深い背景がありますが、この件に関しては、いずれ稿を改めてお話します。
・・・・・・蛇足の蛇足です・・・・・・
 お口直しに新緑寸描を只管打座に掲載しました。
http://www.morishima.com/cgi-bin/np_shikan/newspaper.cgi?action=view&code=1083687049

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