NHK問題の本質

【茫猿遠吠:NHK問題の本質:05.01.24】
 NHKと朝日新聞がNHKの特集番組を巡って、政治圧力があったのか、なかったのか。取材方法や記事内容に問題があったのか、なかったのかと、NHK、朝日新聞、そして自民党有力者のあいだで論争が続いている。
 この問題の論点の一つは、政治介入があったのかなかったのかという点、
もう一つは、番組内容に問題があったのか、なぜ変更されたのかという点である。
しかし、この二点にばかり拘っていると問題の本質を見失ってしまう。
 NHKは自社のサイトでこの問題について、詳細に説明しているが、そのなかで政治家への番組内容事前説明についての件がある。
Q.放送前に政治家に番組内容を説明することについて
(関根総局長)NHKの予算や事業計画などは国会の承認を受ける。
国会は国民の代表である国会議員で構成されており、与野党の国会議員に、どういう事業を進めていくか、きちんと説明する中で、公平中立性を担保していく。誤解があれば、それを解いていく。
国会議員に会うことを、「圧力」と短絡的に結びつけられることは残念だ。
(引用終了)
 NHKの予算と事業計画は国会の承認が必要であるが、それはNHKが恣意的な運営を行わないための担保措置であり、正々堂々と国会審議に臨めばよいことである。
昨今話題になっているような、番組制作費の私的流用や横領などと云う事件を起こさないように管理し、右顧左眄しない堂々とした番組造りを行っていれば、国会審議に際して有力議員への事前説明など不用
であろう。そのような行為は株式会社が総会の前に総会屋へ根回しするのと同様の行為であり、不正の温床につながる行為でもある。
 株式会社が総会屋へ根回しする動機の内、不正を隠蔽しようとするのは論外であるのだが、以外と多いのは長時間総会を嫌う経営者の意を受けてシャンシャン総会を演出しようとする事なかれ主義よるものである。
 NHKでも、国会でネチネチと質問されるのを嫌う会長や理事者の意向を受けて事前進講を行うのであろう。
 そこには様々な利益誘導が介在すると疑うのが常識的であろう。
 ここに云う利益誘導とは、金銭や物品を指すのではない。NHKの出世コースは政治部であるという。いいえ、NHKに限らず大手新聞社の出世コースも政治部であるという。かのナベツネさんも政治部出身である。
つまり、利益誘導とは、日頃の情報に絡む様々な水面下の動きなのである。
 さらにNHKには問題が多い。それはNHK子会社問題である。
一般新聞社が子会社を持つのとは異なって、視聴料から運営されるNHKが子会社を多く設立して、利益操作や天下りなどを行っているかの疑惑問題がある。この点は道路公団や郵政公社と同様の「闇の部分」を抱え込んでいるのである。
 この点に関して、今最も批判されているのが「プロジェクトX」という番組である。番組開始当初の目論見と違って、今や企業の提灯番組と化しているという批判が絶えない。さらに「プロジェクトX」関連の書籍出版や企画展などの開催も様々な問題を抱えている。
 断っておくが、商業新聞や商業放送が行うのであれば、それほどに批判されない企画である。「PR広告」まがいという指摘は受けるであろうが、公共放送なるが故の批判は受けないであろうし、読者や視聴者も最初からその種のフィルターを用意するであろう。
 国民の財産でもあり、不偏不党が当然の立場である公共放送であるが故にその在り方が問われるのである。
 この件に関して重要な指摘がある。
社会には権力と権威がある。権力は国家権力であり、行政、司法、そして与党などが含まれる。権威は第四の権力とも云われる報道機関や学識者などの世俗的権威と、宗教的権威などがある。権威は権力をチェックする機能を持つものであるが、権力が権威に介入すると独裁政治に陥る。
 報道と政治権力の分離、宗教と政治権力の分離が常に問われるのは、この由縁からである。
 NHKは権威として存在すべきである。存在すべく不断の努力が求められている。しかるに、自ら権力に迎合するような行動をすれば、それは権威の失墜であり、自らの破綻である。
 さて、茫猿は昨今の風潮に対して、危機感とも焦燥感とも云える思いを持っている。吉永小百合さん風に云えば「戦後は戦後であり続けなければならないのであり、闇雲に戦後を終わらせようとする目論見は拒否しなければいけない。」と考えている。
 その観点から、NHK問題に関する全国の新聞社説を眺めると、興味深い事実が浮かび上がってくるのである。
かねてから大手新聞紙の欺瞞とも云える姿勢について『鄙からの発信』でも述べてきたが、この一件ではそれが更に顕著に見られる。
 そして全国紙と地方紙の姿勢の違いも明らかになっているように思う。
全国紙と地方紙の幾つかの社説抜粋を掲載します。お読み頂ければ理解できることですから一つ一つのコメントは避けますが、全国紙の傾向と地方紙の傾向(一部かもしれませんが、茫猿の知る限りにおいて)とは、相当の隔たりが存在すると思います。
※毎日新聞 05.01.21・東京朝刊社説
「NHK特集番組 問題点を整理する必要がある」
問題の第一は、NHKに対し安倍氏らの政治圧力、介入が本当にあったのかどうか。
第二は、番組の内容そのものに問題はなかったのか。
しかし、見失ってならないのは番組がどうして変更されたのか、そこに「NHKと政治」という構造的な問題が潜んでいないか、というのが原点だということだ。
※読売新聞 05.01.23・読売社説
[NHK番組問題]「疑惑が残れば公共放送の危機」
日本のジャーナリズムの在り方にもかかわる問題だ。両者の論争が、事実関係の解明につながるよう望みたい。事実関係の解明が中途半端な形に終われば、とりわけNHKにとって深刻な事態となりかねない。
 事実関係の確定を抜きに、一般論としてNHKと政治家の「距離」が、ことの本質だ、とする論調もあるが、論理のすり替え・争点ずらしのように
見える。
※産経新聞 05.01.21・主張
「番組改変問題 朝日には立証責任がある」
 慰安婦問題を扱ったNHKの番組が政治介入によって改変されたと朝日新聞が報じた問題で、同紙の取材を受けたNHKの元放送総局長が「発言をねじまげられた」と記者会見で朝日を批判した。これに朝日が再反論し、メディア同士の論争になっているが、立証責任は最初にこの問題を報じた朝日新聞にあるといえる。
ともかく、問題はNHK幹部が安倍氏らに呼ばれて説明に行ったかどうかだ。「政治的圧力」の有無を判断するうえで、一つの重要な材料になり得る。
 この法廷は昭和天皇はじめ死者を弁護人なしで一方的に裁いた一種の人民裁判である。それをNHK教育番組で放送した是非は、この問題の本質にか
かわることである。決して別次元の問題ではない。
 今回の問題は、メディア全体の信頼性を失墜しかねない問題をはらんでいる。朝日の適切な対応が問われる。
※中日新聞 05.01.21・社説
「放送の自律性はどこへ 番組改変問題」
 放送前の番組について特定政治家にあらかじめ説明することを「当然」とするNHKの見解には驚かされる。報道機関は、公正であるだけでなく、公正さを疑われないようにしなければならない。
 NHK幹部が安倍氏に呼びつけられたのか、それとも自発的に訪ねたのか、中川氏が会ったのが放送前か後かは本質的問題ではない。
問われているのはNHKと政治家との距離、関係である。
 報道関係者なら政治家への説明を当然とする姿勢にはとうてい共感できないだろう。NHKは番組の改変は圧力によるものではなく自主的判断によるというが、李下(りか)に冠を正したようなもので、疑う方がむしろ自然といえよう。
※中国新聞 05.01.21・社説
「NHK圧力問題 済まされぬ藪の中」
 焦点は二つある。政治の介入が事実であったとすれば事前検閲である。
水掛け論の応酬で事実関係をうやむやにしてはならない。
国会が真相究明に乗り出すか、第三者機関に委ねて徹底的に調べるべきだ。
 もう一つはNHKの姿勢、体質である。NHKの予算や決算は国会の承認が必要であり、かねてから政治に弱い体質が指摘されてきた。予算の説明は当然としても、そもそも特定の番組内容を放送直前に国会議員に説明する必要があるのか。
このこと自体が報道機関としては極めて異例であり、自殺行為と言ってもいいミスである。
 仮に圧力がなかったとしても、放送直前に放送現場の最高幹部が今回のような動きをして、番組内容の「異例の変更」が行われれば、現場の関係者ならずとも「何かあったのでは」と、疑念を抱くのは自然ではないか。
※北海道新聞 05.01.15・社説
「NHKと政治*及び腰では信頼を失う」
 しかし一連の動きで浮き彫りになったことがある。それは政治に及び腰なNHKの姿勢だ。公共放送として政治との適正な間合いをどうとるか。大きな課題が浮上したといえるだろう。
 はっきりしていることは、呼ばれたのではないにしろ、NHKが放送前の番組内容を政治家に説明し、その後番組を直したことだ。通常の編集の範囲だと主張しても、政治的な配慮を疑われて仕方がない状況を生み出した。
・・・・・・いつもの蛇足です・・・・・・
 いかがでしたか、どんな感想をお持ちでしょうか。
iNetは便利なものです。一つの事件に対して様々なマスコミ特に新聞社がどのような見解を示しているか、たちどころに調査できます。
そして、そのことは、私たちが曇らされることのない眼を持てるということにつながるのです。見ようとすれば、幾つかのことが見えてくるのです。
 幾つかの新聞が事前検閲を是としかねない主張を行っていることに戦慄すら感じます。いつか辿った道を辿り始めつつある。そんな予感があります。
 適切な表現ではないのですが、
『見ようとする意志を持たなければ、盲目に等しい。
  いいえ、見ようとする意志を持つ盲人ほども、見えていないのです。』

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