陽春は物憂いもの

 晩春はなぜ物憂いのであろう。花咲き緑あふれ、そこかしこに命があふれているのに、なぜか物憂いのである。昨日も日がな一日、陋屋の庭というか藪と云おうか野良に出ていた。下草を刈り、下た枝を払い枯れ枝を集め、林の中を過ぎてゆく風が通りやすくしていたのである。
 一汗も二汗もかいて、流れてゆく風に汗をぬぐわせていると、とても心地よいのであるが、陽溜まりに咲く花々や陽射しに映える若葉を眺めているとふと物憂くもなるのである。


 多分、己自身が来し方行く末の峠を随分と越えてしまったせいでもあろし、昨年は友人を肝臓ガンで失い、この春は肺ガンを発病した二つ違いの従姉を思うからであろう。一昨年に脳梗塞で倒れた隣家の幼なじみは未だに回復の兆しなく、茫猿を認識してもくれない。
「この春も花は同じように咲くのに、人は逝きて還らず倒れて復えらず」
その哀愁が物憂くさせるのであろうか、我が身にとっても過ぎた日は還らず、衰えを見せ始めた肉体のそこかしこが蘇る様子とてないのである。
 茫猿を物憂くさせる陽春の花です。手前が平戸ツツジ、両サイドが血汐モミジ、中程はボタンとハナミズキ、右端の山ボウシはまだ花を付けない。 (100kb)


ぼたんと平戸ツツジ、左下は蕾がふくらんだシャクヤク。(95KB)

大根の花です。花もちはよくないが結構可憐です(50kb)

しばらく前に花と香りを楽しんだ梅が実を大きくさせました。
これでもう親指の爪くらいの大きさです。(50KB)

 花咲き実を付ける営みの確かさを驚嘆するのである。折しもあるかなしかの風に揺られてカサコソと楠の枯れ葉が散ってゆきます。耳を澄ましているとあちらこちらで、カサ、サラ、コソ、サワ、サラと小さな音を立てている春の落葉です。気づくと楠の大木は昨春以来一年間身にまとった青葉を脱ぎ捨て、その全身が新緑に包まれています。ここにも生と死の営みが営々と続けられているのです。
 ところで、いささか花便りが多すぎると思われませんか。記事全体に占める花便りの割合が少し多いと茫猿も感じています。これには二つの意味があります。一つは茫猿の身の廻りでの日々のうつろいを記録にすることにあり、もう一つは其処に去年とのなにがしかの違いを見ることにあります。最初の写真で「ヤマボウシ」についてふれました。昨年の記録を振り返ると、ヤマボウシは5/20頃に咲いています。今年はいつになるか、ブログを発行するようになってから日々を記事にすることが多くなり、日記性や私家記録性が増したと云うことでもありましょう。
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