フラクタル現象

 先日届けられたEvalution-No.33の巻末に「鑑定雑感=フラクタル(現象)とエレベーター相場」と題する記事が掲載されていた。 筆者はEvaluation常連寄稿者・北国の論客・堀川裕巳氏である。
フラクタルを広辞苑で引くと、『フラクタル《fractal》:どんなに微少な部分をとっても全体に相似している(自己相似)ような図形。海岸線などが近似的なフラクタル曲線とされる。』とある。
 i-NETで検索すると、こんな解説に出会った。 『その後、画像解析や流体力学などの科学技術分野ではもちろんのこと、株価の動向や群集の移動など社会科学の分野においても、さまざまなコンピューターシミュレーションのモデルとして広く応用されてきた。 』


 堀川氏は従来の不動産市場をエスカレータ相場といい、地価水準の推移が比較的連続的であったことや、取引資料も得られたことから、地価推移の傾向について先読みが可能であったという。
 しかし、不動産の証券化が進んだことなどから、地方の不動産市場に東京市場が影響する時間差が短くなり、東京市場に海外市場が影響する時間差もまた短くなったという。 また地域間の時間差が短くなるだけでなく、証券市場や金融市場の変化に影響される時間差も短くなったといい、これを”トレンドを読むことが難しくなり、瞬時に上下するエレベーター相場”と名付けている。
 そのエレベーター相場の時代に於ける不動産鑑定評価:取引事例比較法における事情補正と時点修正について論じているのである。 詳しくはEvaluation誌の堀川論考をお読み頂きたいのであるが、堀川氏が引用する《高安秀樹著『経済物理学の発見』光文社新書》を孫引き引用すれば以下のとおりである。

 『経済学(不動産鑑定評価理論)が科学になりきれないのは、観測事実を最優先して素直にあるがままを認めるような体質が欠けているからだ。』

 『フラクタルとは、カオスと並ぶ複雑系の科学の基盤となる概念で、一部分を拡大したものが全体と似ているような性質を持つものを総称してフラクタルと呼ぶ。』

 近時に於ける取引事例比較法の弱点は、デジタル化並びにデータファイル化された取引価格や売り出し価格等の市場資料が限りなく多数得られる状況下にありながら、”少数の限定された事例資料を取捨選択し(時にそれは恣意的に選択されかねない)、事情補正を施し(科学的根拠が得られているとは限らない)、時点修正を施してから(時点修正率の判定根拠が曖昧である場合が往々にして見られる)、事例地と評価対象地の品等格差補正を行うという作業工程にあると云える。
 さらに、事情補正値や時点修正値が品等格差補正値を大きく上廻っている場合も少なくないようである。 つまり得られた比較結果(比準結果)の信頼度(規範性)は、事情補正値や時点修正値の信頼度(妥当性)に委ねられてしまうということである。 品等格差補正値が内在させている誤差の範疇以前の問題であるとも云えるのである。
 堀川氏は論考をこのように結んでいる。
 『異常値としてデータを排除することに慣れてしまうと、異常値の背後にある市場の変化を見落としてしまいはしないかということである。 異常値は実はフラクタル現象そのものかもしれず、異常値が増加傾向にあるということは、市場の転換点を示すことかもしれないと思うのである。』
 重要な、そしてとても的確な指摘であろうと思われる。
多量の市場データを取り扱うことが可能になった状況においてなお、旧態依然としたアナログ的手法に固執しているのではないかと読めば深読みであろうか。 我田引水的に云えば、茫猿が取引事例比較法に併用して市場資料分析法を採用せよといい、デジタル化時代に即応した数値比準表を再構築し、デジタル処理のノウハウやツールを確立せよと云うのと相通じると思うのであるが如何なものであろうか。
 デジタル化された多量の市場データに地理情報を付加し、それらを基礎として、三次元的な傾向分析を行うことからでも何かが読みとれるのではなかろうかと考える。 このような意見を述べると決まって返ってくる言葉がある。 「そんなものは鑑定評価ではない。」
 確かに鑑定評価基準には何処にも書かれてはいないのである。 しかし不動産鑑定評価基準は「悉皆調査:不動産取引センサス」も「地理空間情報基本法」も「コンピュータGIS」も前提とはしていないが、鑑定評価を取り巻く状況は多量のデータを多面的に解析できる状況に既に至っているのである。 そういった新しいツールを試みようともせずに排除することが、専門職業家として真摯な態度とは思えないのである。
 茫猿は不動産鑑定評価基準を否定しているのではない。 近年出現してきた新しい状況に的確かつ誠実に対応すべきであろうと云うだけである。 取引事例比較法を成り立たせている”鑑定士の職人的分析能力”を下支えするあるいは補強するものとして、多量データを基礎とする傾向分析に取り組むべき時であろうと云うのである。 同時にこの情報化社会における不動産取引について、基準が云う「取引の個別性」というものにとらわれすぎてはいないだろうかとも考えるのである。
 言い換えれば個別の不動産取引価格は個別的に形成され、個別的な事情に左右されがちであるにしても、《あまりにも当たり前のことであるが》、マクロ的な市場動向(REITや都心市場動向、経済ファンダメンタルズや海外市場の動向)にも大きく影響されるものと云えるのではなかろうか。
『追記』
 この類のことを書けば、返ってくる反論は大概にして予想できる。 個別性の強い不動産価格というものについては、多変量解析やヘドニックアプローチなどの手法は無力であり、実用に耐えないと云われるのである。 このことを茫猿は否定しない、その通りと肯定する。 それでも一次(原初データ)、三次(アンケート回収結果)等の多量データを基礎とする分析が無意味とは思えないのである。 一歩譲って現状では無意味であるとしても、その無意味である原因を探ることにより少しでも有意化してゆくことにこそ意味があろうと思うのである。 しばらく前に記事にした「敷地細分化抑制のための評価指標」についても、鑑定評価の実践の場のなかで様々な実験を繰り返すことに意味があろうと考えるのである。
 不動産鑑定評価というものが、多様化し精緻化してゆくなかで、細部にこだわるのあまり全貌を忘れてはいないかと危惧するのである。 鑑定士が容易に入手可能な生データを基礎にして、そのデータが語ることを聞こうとする姿勢を忘れてはいないかと、大局観というものが大切であり、その大局観の裏付けを確認してゆく姿勢も大切と、いささか散文的な物言いであるが云うのである。 デジタル化による小手先の簡便さは手に入れたものの、 『鄙からの発信』三番目の記事に記す状況と、本質的にはあまり変わっていないのではないかと思われるのである。

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