立秋の夕風

立秋の頃《08/07》から旧盆《08/15》にかけては季節の移ろいと云うか、交差してゆく季節を一年で一番感じるように思います。空は水蒸気の多い夏空から日に日に澄んでゆきますし、日陰の濃さが極まってゆく感じがします。

夕刻近くなれば、日ざしはまだ暑くとも、時折吹き抜けてゆく風がとても心地よいものです。アブラゼミの鳴き声が峠を過ぎてヒグラシの声が聞こえるようになり、日が落ちれば虫の声が響きます。畑では収穫を楽しませてくれた、トマト、ナス、ウリ、十六ササゲなどが盛りを過ぎて枯れ葉が目立つようになります。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども」と詠われましたが、風の音に秋を知らされなくとも、木陰の色濃さ、野菜の枯れ葉などに秋がもうやって来ているのだと見えるのです。蒸し暑い夏が終わり、木陰を抜けてゆく風がさわやかになる季節は、早朝や夕刻に心地よい時間を過ごせるのが嬉しいし、何やらホッとさせるものがあります。

青春・朱夏・白秋・玄冬の倣いによれば、燃える赤い日ざしの夏がゆき風が白い秋がやってくる。朱と白の交差する季節が八月の前半なのだと思います。子供の頃の旧盆は、夏の旬日ちかくも滞在した母の実家から家に戻り、夏休みがもう終わるのだという寂しさに襲われた時季だったと思い出します。

秋は感傷的になる季節と云いますが、私にとっては夏が行き過ぎ秋がやってくるこの朱夏から白秋への交差する時期が最ももの思わせる季節です。先ほど台所と風呂場のリニューアルを依頼していた業者の説明を伺っていて、機器の耐用年数とか配管の耐用年数などの説明を求める家人に、思わずこう言ってしまいました。

「君はいったい幾つまで生きるつもりなのだ。我々にはあと二十年も保てば十分なのだよ。二十年も必要ないのかもしれないのですよ。」人生の白秋ただなかにいるとは自覚していますが、玄冬という自覚はまだありません。玄冬を思わせられる時がやってくるのか、それとも白秋のままに閉じることになるのか。楽しみと云えば楽しみなことです。

ただし、玄冬を黒色の季節、暗い季節と字句どおりに解するのは少しばかり違うような気がします。幽玄とか玄妙と云う言葉があることからしても、”玄”という字は”黒色”を云うのではなく。深遠な奥深さを意味したり、ある到達点を意味しているように思えます。青春、朱夏、白秋を通り過ぎてから、至るであろうある種の高み、もしくは深みなのではなかろうかと思えば、少しでも近づくことができればと願われます。

黄昏れせまる頃に、誕生後二ヶ月を迎えた次孫を抱いて庭先を散歩すれば、おぼろげに見えているであろう夕映え空を眺め、頬にあたる風が心地よいのかかすかな笑みを浮かべている。やがて心地良さそうに眠りはじめるのである。孫にとっても気持ちよかろうが、抱いている鄙爺にとってこそ至福のひとときである。孫を抱き夕風を楽しむのは白秋の楽しみであろうか、それとも玄冬ゆえの味わいなのであろうか。そして、明日は広島原爆忌。

 

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