目には彩に見えねども

 立秋の頃《今年は08/08》から旧盆《08/15》にかけては季節の移ろいと云うか、交差してゆく季節を一年で一番感じるように思います。空は水蒸気の多い夏空から日に日に澄んでゆきますし、日陰の濃さが極まってゆく感じもします。

 夕刻近くなれば、日ざしはまだ暑くとも、時折吹き抜けてゆく風がとても心地よいものです。アブラゼミの鳴き声が峠を過ぎてヒグラシの声が聞こえるようになり、日が落ちれば虫の声が響きます。畑では収穫を楽しませてくれた、トマト、ナス、ウリ、十六ササゲなどが盛りを過ぎて枯れ葉が目立つようになります。

『秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる』(古今集・藤原敏行)

 毎年八月上旬には忘れ得ぬ日付という記事を掲載している。いずれの日付も自らが被災を体験したわけではないが、現地に足を運び私なりの追体験をしたことで今に連なる日付となっている。その記事の一部を再掲しつつ今の思いを記してみるのである。

1945.06.23 沖縄慰霊の日
 太平洋戦争における沖縄戦と云うものがどのように位置づけられていたかを考える日である。普天間基地の辺野古移転問題が起きてからは、明治政府による1879年の琉球処分、そして沖縄を米軍施政下に置き去りにしたままで、1954年にサンフランシスコ講和条約を締結し主権を回復した日本という国の”在り様”を考える日でもある。

1945.08.06 広島原爆忌
 原爆ドームをはじめ平和記念資料館などを、高校の修学旅行で初めて訪れて以来、数度訪ねている。福島の原発事故が起きてからは、被爆国、地震国日本において原発を稼動させることの意味を考えさせる日でもある。

1945.08.09 長崎原爆忌
 平和祈念像、浦上天主堂、原爆資料館などを訪ねている。広島も長崎も市電が今も稼動している街である。今年の春にも長崎を訪れて市電の乗車体験をした。

1995.01.17 阪神淡路大震災の日
 発災の年の三月半ば頃、震災後間もない神戸で独り暮らしを始める長男の引越荷物を運んで、瓦礫が積み重なり異様な匂いの漂う早朝の神戸の町へ入って以来何度も訪ねました。学生時代に何度も訪れた神戸の町が無惨に変わっているさまを眺めて以来、行く度に復興してゆくさまと、それでも随処に残る傷跡を眺めたものです。東日本大震災が起きてからは、阪神間と云う都市圏域における震災と、過疎化高齢化の進む東北沿岸地域における震災の違いを考える日となっている。

2011.03.11 東日本大震災の日
 発災後一ヶ月余を経過した2011. 04.25 に岩手県釜石市、大槌町を訪ねました。その後も気仙沼市、いわき市、仙台市若林区などを訪ねました。 2008年秋に気仙沼で一泊したから、その時の穏やかな気仙沼が被災後にすさまじく変貌した様子は今も記憶している。

 今の私にとっては、原発にどう向き合えばよいのかを考える日である。過疎地に原子力発電所を立地させ都市圏域に電力を送電供給する構造の背景、電力供給の経済性と云う短いスパンの経済効率性と放射能半減期まで何万年と云う長い期間を要する原発廃棄物処理問題、そして想定外としていた過酷事故処理や廃炉処理問題などを考える日となっている。多額の資金投下をして過疎地に原発を立地させる構造は、沖縄に米軍基地を集中立地させる構造とどこか似ているとも考えるのである。

 この五つの日付はいずれも記念日ではない。
当事者にとっては当たり前のこと、縁薄き者にとっても慰霊の日であり祈念の日であると思う。 そして、今現在のおのれの生き方を振り返る日でなければと考えている。お盆と云う季節は此岸と彼岸に”思い出”という橋を架けて、亡き人々を我が心のうちによみがえらせる日なのであろうと考えている。甦らせることにより、日々澱のごとくかさねている我が暮らしを思い返す日なのであろうと考えている。

 年齢を重ねるとともに忘れぬ日付が増えてゆくのも致し方無いことであろう。今朝は寝床でラジオ深夜便が流している広島原爆投下に関わる記録(ルポルタージュ)を聴きながら、事実と真実について考えていた。

「事実は、本当にあった事柄、現実に存在する事柄。 真実は、嘘偽りのないこと、本当のことを意味する。 意味は似ているが、事実はひとつで、真実は複数あると言われるように、事実と真実は異なり、一致しないことの方が多いくらいである。 … つまり、真実は人それぞれが考える本当のこと(事実)で、客観的なものではなく、主観的なものである。」

 沖縄戦死者数・約20万人、広島原爆死者数・約14万人、長崎原爆死者数・約7万4千人、阪神淡路震災死者数・約6,400人、東日本大震災死者行方不明者数約18,500人、これらの数字はいずれも事実である。客観的な数字でもある。

 しかし此の羅列される数字からは、死者一人一人の真実は浮かび上がってこない。死者一人一人には、それぞれの異なる人生が存在し、それぞれの死にいたる経緯があり死に際が存在する。同時に死者の縁に連なる人々にとっても、一つ一つの死は異なるものであり一つとして同じものは無い。

 死者一人一人に、名前があり年齢があり親兄弟妻子があり、同じものは無い。死者への思いは千差万別様々であり、それぞれに主観的なものでもある。

 罹災死者数として現される数字は客観的事実ではあるが、一括りに表示される数字からはその数字の背後に存在するであろう真実が何も見えてこないのである。歴史の事実となった数字からは何も見えず、見えているようで上滑りしているのである。事実の背後に存在する一つ一つの真実を見聞きすることから、歴史に確かに迫ることとなる。

 この季節になれば様々な立場を背景にして、様々な人たちが語る南京虐殺者数も従軍慰安婦数も戦時徴用労務者数も、事実の確定すら未だにできていない。確定も確認もできていない事実を他所にして、様々のまさに様々の真実のみが時には似非真実も混じえて声高に語られる。

 それらは他国に派兵し敗れたと云う事実と真正面から向き合ってこなかった、敗戦後七十年、終戦と言い換えた七十年の反映《と云うよりも残滓》なのであろう。

 08/03 あいちトリエンナーレ2019で、展覧会内企画展「表現の不自由展・その後」が開幕後わずか3日で展示中止になった。テロ予告への屈服であり、一部ポピュリズム右翼政治家が「出展作品の「平和の少女像」は多くの国民が反日作品だと思っている」などと発言し、高須克弥氏、百田尚樹氏らがこの問題にTwitterで言及し、事務局に対する抗議電話も始まっていた。

08/06 広島は六日、被爆から七十四年の「原爆の日」を迎えた。広島市の平和記念公園では午前八時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。松井一実市長は平和宣言で、日本が参加していない核兵器禁止条約への署名・批准を政府に促し、戦争で核兵器を使用された経験がある唯一の国として核廃絶へ一層の指導力を発揮するよう求めた。

 安倍晋三首相は式典後の広島市での記者会見で、禁止条約について署名・批准に否定的な考えを改めて表明。米ロの中距離核戦力(INF)廃棄条約の失効に関しても米国への理解を示した。(中日新聞08/07朝刊には、首相「橋渡し」被爆者「ごまかし」の痛烈見出し) https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019080702000055.html


「(表現の自由を侵す検閲実施や核保有、戦争のできる国化などと)秋(とき)来ぬと 目にはさやかに 見えねども (携行ガソリン缶ブチまけ予告の電話着信音)鈴の音にぞ おどろかれぬる」 嫌な時勢です。こんな時にこそ「日韓政府に行き違いはあっても、芸術、表現の自由は守られなければならない。」と表明する総理でありたい。

【閑話休題】早起きは三文の徳と言うけれど、このセミ君は寝坊していて、仲間が木末で鳴いているのに、まだ脱皮後の羽乾かしが間に合わない。(08/07 Am8:00撮影)

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