咲き始めた

今年も変わりなく鄙里の桜は咲き始めた。
まだ幼木の緋寒桜、そして河津桜が今月中旬に数輪の花を見せたのを皮切りに、雑木林のなかの染井吉野が白いコブシの花と並び青空と楠若葉を背に咲いている。 川沿いの鄙桜はまだまだ咲き初め状況だが、昨日の雨で潤いを増し、今日は暖かくなると云うから一気に開花するだろう。

元来、桜の季節は華やかで心弾む季節なのだろうが、いつの頃からか物憂い季節にも思えるようになった。桜に連なる亡き人々の思い出が増えたせいでもあろう。 この桜を見るのもあと幾たびかと思える年になったからでもあろう。 もの憂さをもたらす一番の原因は、芽吹き若葉や青草の草いきれに抗しきれず押され気味になっている己自身の遣る瀬無さが運んでくるのだろう。

コブシと染井吉野150330sakura1

咲き初め鄙桜150330sakura2

幾つかのメモ書きが、記事にならずに鮮度を失い埋もれている。
《鳩山元総理のクリミア訪問》
元総理は本当に宇宙人なのだろうか。 普天間基地の県外移設を主張したことを発端として、総理の座を追われた。そのときも宇宙人と嘲られた。 クリミアに同行した高野孟氏などの主張をネットで読んでいると、鳩山氏が宇宙人ならば、「国益に反する」と非難する安倍総理をはじめとする政府筋は、硬直化した小さな覗き窓からしか世界を見ることのできないガラパゴス星人にも見えてくる。 多様化する世界を多彩な視点から眺めるということの大切さが、今こそ求められているのではなかろうかと思われる。

《翁長知事と安倍総理》
辺野古沖埋め立て問題で翁長沖縄県知事と安倍内閣が対立している。中央政府と地方政府が対立した時の解決策は、一事不再理でも問答無用でも無かろう。 沖縄知事選挙と沖縄衆議院選挙で示された「琉球の民意」と丁寧に向き合うという姿勢こそが求められる。

安倍内閣は沖縄県の、いや琉球国の独立運動などあり得ないと高をくくっているのであろう。でも歴史の教える導火点とか分岐点というものは、あとから思い知らされるものである。 抜き差しならなくなれば、独立以外に琉球の自主自尊の道はないと、琉球人たちは思い始めるかもしれない。 一気に独立までゆかなくとも自治権拡大闘争が始まりそうな予感がする。 一国二制度という先例が沖縄のすぐ近くに存在することもある。

安倍総理の言う戦後レジュームの再構築とは、東京裁判や戦後憲法や安保体制の再評価を云うのであれば真っ先に、沖縄戦後の沖縄処理問題を再評価し再構築することに踏み込まざるを得ないのではなかろうか。 日本政府が駐留米国軍に「思いやり予算」を提供するのであれば、琉球政府は日本国政府に「米軍基地危険負担及び迷惑料」を要求するべきであろう。

《白鵬の物言いあれこれ》
一月場所後の白鵬の物言いについて様々な意見がある。 いわく横綱の品位を欠く、いわく審判の判定結果と異議申し立て、さらには横綱が懸賞金を受け取る態度についてなどなど 随分と騒がしい。大相撲は神事の一つであったし、寺社に奉納する興行相撲でもあったという歴史を持っている。だから国技ともいわれてきた。

しかし、世界に国技を解放し、世界から競技者を迎えたら、もうかつての国技ではない。少なくとも開かれた国際性とか透明性と云ったものが求められるであろう。 日本人にとっては神事であり自明のことでも、外国人にとっては意味不明であり理解できないことも多かろう。日本語の理解力不足から時には差別と受け取られることも少なくなかろう。 そのあたりを外国人入門者に伝え教える努力が問われているのではないか。もしくは、神事性を捨ててSUMOH競技に徹するか。さしずめ部屋制度や親方制度をどのように解放し変えてゆくのか、その辺りから問われるだろう。

年寄り親方は日本国籍保持者に限ると云っていても、現在の横綱や幕内の様子からすれば親方有資格者の過半数は外国出身者となる時代もそう遠くないのだが。

《原発事故その後》
三月中旬のテレビ朝日・報道ステーションは各地の東日本大震災の追悼行事を報道したのち、福島原発事故処理のその後を報じていた。 原発から出る「核のゴミ」について日本は『地層処分』を基本方針としている。しかし、どこに埋めて最終処分するのか、候補地すら決まっていないのである。

このコーナーの最後を、キャスター古館伊知郎はこんなコメントで締めた。
「この番組に原発再稼働に反対する小泉純一郎、そして細川護煕両元総理をお呼びしたい。同時に原発再稼働を推進する竹下経産大臣、八木関電社長をお呼びして対談を行いたい。」 そしてこう結んだ「とても実現しないでしょうが。」

是非とも実現してほしいものだ。テレビ番組が無理であれば何か他の方法が考えられないだろうかと思う。小泉、細川、宮沢、八木各氏は社会的存在であり公人として呼びかけに応える義務があるだろうと思う。

原発再稼働問題は温暖化対策や環境保全とか持続可能なエネルギー資源などと云う観点が前面に出ているけれど、その本質は経済合理性にあると考える。 短期的に、少なくとも10〜20年以内であれば、電力会社、関連産業及び企業、立地自治体等にとって、既に建設済みの原発を再稼働することが経済的に合理的であり、優先課題であるだろうと十分に理解できる。

しかし、十年以上のスパンで考えれば、短期的な経済合理性などというものは雲散霧消するというよりも木っ端微塵となる。それは原発廃棄物の最終処分という未解決の課題が浮上してくるからである。既に廃棄が決定した原発が福島以外にも数基ある。今後廃棄が決まる原発は増えてゆくし、廃棄処理が進めば進むほどに廃棄物処理が現実の問題となってくる。 だから、原発問題は視点の基礎を十年未満とするか、二十年三十年以上とするかで大きく変わるのである。

この問題に似た事件が二十年ほど前に起きていた。不動産バブル崩壊と住専破綻処理問題の先送りと云う、日本の金融界で起きた構造的事件である。損切り処理を先送りして自らの任期中はしのごうという姿勢が損害額を膨らませていったと云う、損失無責任先送り事件である。原発問題も同じ構造のごとく見えている。

 

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