越南紀行−2

紀行文と云うものは普通、日付順に記述するものである。ところが、越南滞在中にiphoneに記してきたメモをMac Miniへ複写移転しようとして、その総てを失ってしまった。すべてはiphoneの機能に不慣れな己のせいである。残るはFaceBookにアップしたメモだけが頼りであるが、同伴者や同行者の目線を《いささか》気に病んで、FBには筆を押さえた仮面記述しか残していない。 そこで、残されているであろう乏しい記憶を頼りに、ランダムに先ずメモの復元から始めるのである。とりあえずの記述は順不同・場所不同なのである。

『ベトナムと私・茫猿』
ベトナムと云う国は私たちの世代には特別な国である。ベトナム戦争《米越戦争》が勃発した年には諸説あるが、一般的には1964年8月のトンキン湾事件とされている。北ベトナム艦艇による米軍駆逐艦への魚雷攻撃事件が端緒である。後にこの北ベトナム海軍の攻撃は米軍による捏造と判明した。《開戦時については、フランスからの独立を目指す第一次インドシナ戦争以来の諸説がある。》

ベトナム戦争が南ベトナム解放戦線のゲリラ攻撃、米軍の北爆、韓国軍猛虎部隊のタイビン村事件、米軍によるソンミ村事件などを経るなかで、米国内における反戦運動が激化してゆくのである。北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線のテト攻勢、米軍と南越軍のカンボジア侵攻、ラオス侵攻など、戦争は長期化泥沼化してゆく。

1972年にはニクソン訪中が実現し、1973年1月パリ和平協定が締結され米軍はベトナムからの撤退を開始する。 さらに1975年4月にサイゴンが陥落して、ベトナム戦争は事実上終結した。

ベトナム戦争が勃発する1964年に私は20歳の学生であり、ニクソン米国大統領が電撃訪中する1972年1月に不動産鑑定士の登録を行っている。1974年には長女を失いながら、当時勤務する鑑定事務所の岐阜支店を開設している。

私にとってのベトナム戦争は、多感な学生時代、真摯だったと記憶する不動産鑑定士受験時代、そして鑑定事務所を背負ってゆく時代と重なっているのである。 私が特に反戦運動に参加したというわけではない。しかしながら、戦後のかすかな記憶や、朝鮮戦争の記憶と、ベトナム戦争は重なるものであり、日本と云う国の在り様や自らが日本と云う国に向き合う姿勢、そして不動産鑑定評価 と云うものに向き合う姿勢を根底で形づくって行ったように記憶する。

ベ平連、小田実、吉岡忍、そして開高健を知るのもこの頃である。今回のベトナム旅行に開高健の『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』を持参しようと考えていたが、手許には無く購入できぬままにベトナムに旅立ってしまった。

投宿したホーチミンのMajestic Saigon Hotel のロビー・コンシェルジェカウンター背後に、カトリーヌ・ドヌーブ、ヘンリー・グラハムグリーンと並んで開高健の写真が掲げられているのを見た時には、開高本を持参しなかった迂闊さをとても悔いたのである。写真は皆がすなる自撮りなるものを、茫猿も試してみむとてするのである。六十を待たずして世を去った開高健よりも、十年以上も無駄飯を食い続けている我が身を恥じる。kaikouken 日本は戦後七十年であるが、ベトナムは戦後四十年なのである。ドイモイ政策を経て戦争を知らない世代が人口の過半を占めるようになったベトナムであるが、注意してみれば戦争の傷跡は見つけることができる。傷痍軍人らしき《地雷で隻脚となった民間人かもしれない》、老いた物乞い人を街角で見かけたこともあった。

私にとってベトナムは、朝鮮特需、ベトナム特需という言葉とともに、ある種のウシロメタサを感じさせる国であり、同時に沖縄嘉手納基地の不沈空母としての存在を意識させる国なのである。そういった意味で、ニヤチャンの蒼い海に独り浮かべば、様々なことを思わせられる国でもある。

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