越南紀行−3

今回の旅行企画は総て長男の手に拠るものである。飛行機の手配、ホテルの手配、9人乗りチャーターカー《ミニワゴン》の手配、メコンデルタ民宿の手配など全て彼が行った。旅の途中でミニツーリスト並みのその大変さを思い、彼に「余程仕事が暇なんだね!」と冗談まじりに尋ねたら、「仕事は毎日夜遅くまでしてるよ。この旅行参加を父さんに尋ねたのは三月初めだったことを憶えてないのかい。」と、返された。

『ツアーコンダクターのご苦労』
彼は、東南アジアをミャンマー、インドを含めて、学生時代から何度も訪れている。少なくとも年に一度は訪れている。それが講じて、バリ島で結婚式を挙げることとなり、我々両家の親族も参加を余儀なくされたのである。

《たとえ、不承知でも、先方の両親姉妹が参加すると聞けば、我が家は不参加とは言えない。我が家では母親と次男が真っ先に賛成したから、私は皆の旅費を工面し、歳末超多忙の地価公示業務をやり繰りするハメになったのである。もちろんのこと、今となれば楽しい思い出に変わってはいるけれど。》

彼は休日の合間に、飛行機・ホテルの予約をはじめ、現地ツーリストとの折衝も行ったそうである。飛行機やホテルの予約はそれほどに難しいことではないけれど、チャーター・カーの予約やメコンデルタ農家民宿の予約は大変だったそうである。《それも旅三楽の一つと言ってしまっては彼に申し訳なかろうけれど。》

先ずはiNetで、幾つかの民宿候補のなかから選択して、概括の予約申し込みを英語で行う。次いで返ってきた返事の内容を確認し、こちらの細かい希望を伝えるのである。特に幼児連れであるから、食事、ベッドの注文を伝えなければならない。チャーター・カーについても車種や送迎、乗り捨て条件の確認が必要だし、小舟によるメコンデルタ・ツアーの詳細も同様であろう。

多い時には、注文・確認・返事・確認の往復が十数度に及んだと云う。彼の努力《娘と妻の為であるとはいえ、双方の両親、特に母親への気遣いもあったであろう。》に感謝するものである。《旅の途中では伝えられず、疲れによるとはいえ、ときに不機嫌な顔も見せたから、あらためて謝意を表わしておきます。》

個人旅行が好きで、海外ツアーは個人で行っている茫猿ではあるが、そこまではしない。せいぜい、日本のツーリストの店頭で、飛行機を選び、ホテルを選ぶくらいである。あとは現地で出たとこ勝負という旅である。だから、旅の途中でホテルを変えることはできないし、帰りの航空便を早めたり遅らせたりもできない。《現役の頃には、帰ってからの予定が有るから、遅らせることなど出来っこなかったけれど。》

今回の旅でツアコン役の彼が最も神経を使ったで有ろうことは、愛娘の食事であろう。フォーも食べるし、ブレッドも食べるのだが《ベトナムのフォーもブレッドもともに旨いし、店による当たり外れが少ない》、何と言っても彼女の好物は白いご飯である。それもジャポニカ米であり、インデイカ米ではないから、炒飯で誤摩化すと云うわけにはゆかないのである。レストランに白いご飯の用意が無くて、ハングリーでご機嫌が悪く、ブレッドではガマンできない時に、彼女は「ゴハアーンー」と叫ぶのである。

寿司屋で誤摩化すことは可能だが、イクラの軍艦巻きと納豆細巻きがないと、食べてくれないから困るのである。回転寿司屋に「イクラ”こぼれ”軍艦巻き」があれば、とてもご機嫌な彼女なのである。《一度、岐阜でお盆の回転寿司に連れて行ったら、イクラが切れていて、なだめるのに一苦労したことがある。》

ホーチミンでもニャチャンでも、iNetで探したりガイドブックで見つけりしたお店が、休業だったり、工事中閉店だったり《ニャチャンは建築ラッシュで、移転したり改築中の店も意外に多い》すると、コンダクターの彼は走り廻るハメになる。娘の食事とトイレの為とはいえ、見ていて気の毒になったくらいである。当然のことながら、ファミリー・ツアー御一行様も幼児を抱きかかえて、真夏の日ざしの街なかを歩き回るのである。そのお陰か、腹は空くから、何を食べても旨かったとはいえる。

《かく言う私にしても、朝早く常滑中部空港に帰着し、名鉄とJR、路線バスを乗り継ぎ帰宅したのはお昼頃、早速にご飯を炊き、畑の野菜を採ってきて味噌汁を作ったのである。十日ぶりの銀シャリと味噌汁、それに自家製の柴漬けは、何ものにも代え難い美味さだった。》

次いで、我が家人が長旅の疲れ《飛行機の疲れ、夜行寝台の疲れに加えて、彼女いわくこれが最もこたえたと云う我が鼾による》から、外出せずに部屋で都合二日ほど休息したことであろう。《私も”介護する”姿勢を見せて、街歩きに同行しないで、近場の散策や日がな浜辺で休息していた。》 疲れて、現地香料のきつい食事はできないから、鼻と胃腸に優しい食事ができる場所探しに奮闘努力したようである。

私は、ホテルのプライベートビーチで海水浴と昼寝と読書《眠れるように「非線形科学」を持って行った。この本であれば、三頁以内で眠れる。》三昧に過ごしたのであるから《ロシア系美人を眺めて目の保養もできた。》、結構なバケーションではあった。昼寝起きの彼女に付き合って、ホーチミンの銀座と称されるドンコイ通りで、彼女の買い物に付き合って幾ばくかの点数を獲得できたのは望外であった。

写真は順に、早朝のドンコイ通り、ニャチャンの長く続く砂浜、ライトアップされる本土から島へ海上を渡るロープウエイの支持鉄塔である。donkoi-soutyoube-chi

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南シナ海に面する海は透明度が高い。砂浜も掃除が行き届き、きれいである。乏しい体験ではあるが、砂質のせいもあってか、バリ島やマレーシアのインド洋に面する海よりもきれいである。

彼がこれほどに個人旅に強くなったのには訳がある。確か高校生の頃に、学校を辞めたいと言い出したことが有る。辞めてどうすると云うわけではなく、ただ辞めたいと云うのである。 そこで多少のお金をあげるから、しばらく旅にでも出てこいと申し渡したことが有る。夏休みでも春休みでもない、時期外れの一人旅に出て、何かを考えてくれればと思ったのである。

そのとき彼は、得たりやおうと一人旅に出たのである。彼の目的は好きな列車旅であり、ローカル鉄道を巡る旅だったように記憶する。その後は機会ある毎に旅に出ていたようで、しだいに国内から海外の一人旅に転じて行ったようである。 「ようである」というのは、すべて事後報告・事後承諾であり、大学へ進んでからは何の連絡も報告も得ていない。 時折に祖父母宛に絵葉書や海外土産が届くから、それと知るだけである。

すべての旅に私が資金を提供したわけではない。高校時代に初めて約一ヶ月の旅をした時だけは、多少のまとまった金額を渡したけれど、父親の提供資金に加えて祖父母からも《金額は未だに不明である。祖父母ともに亡くなっているから、今や永遠に謎である。》幾ばくか、或は親の提供額の何割かを得ているはずである。

学生時代にしても、仕送りを貯めたものに若干のアルバイト代を加え、さらに祖父母からの喜捨を得ているはずであるが、これも仔細は今や謎である。だから、彼の旅行体験に私の援助は受けていないと言うかもしれない。しかし、彼が不動産鑑定士試験を受験すると言って受験予備校学費を持って行ったことがあるが、その後の受験経過は定かではない。また、学生ベンチャー・ビジネスにトライすると言って、資金提供を求めたことがあったが、ビジネスは捗々しい結果を見せずに雲散霧消してしまった。提供資金が何処へ消えたか、これも定かではない。

旅のあいだに、「孫娘が私たちのエスコートができるようになったら、国内と云わず海外にも孫娘と出たいね。」と言ったら、「未成年の娘を海外に出すなんて危ないから、俺が付いてゆく。」と、返された。彼の仕事が忙しくて愛娘のために休暇が取れないことを祈るのだが、孫娘のエスコートで旅に出かけられる、せめて十年後まで、こちらの健康が維持できるのか?、その方が心配である。健康であっても様々のことが認知できなくなれば、それでお終いなのである。

 

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