柿すだれ

この秋、甘い富有柿は壊滅に近い状況でしたが、渋柿は例年並みの収穫でした。まだ気温が高いので少し早いと思いましたが、気温の高さは熟成も早めるとみえ適期を過ぎそうになりましたので、摘み取って干柿にしました。《この摘み取りは、紐で結わえ易くする為に、ヘタに残す小枝をT字に残さなければならないので一手間を要する。》

皮をむき、二個を紐で結わえて、北側の風通しのよい軒先に吊るすのです。柿スダレと云うほどの量はありませんが、年末年始に来客でもあれば、格好のお茶請け一品になろうと思います。甘柿の収穫が無かったものですから、渋柿の一部、比較的青いものを焼酎を使って渋抜きもしました。数日すれば渋が抜けて甘柿の代用になろうかと考えています。

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渋柿の皮むきは包丁を使っての作業ですが、百個も皮むきすると親指の皮が包丁の刃に当たって傷つき柿渋が滲みてきます。母が納屋で黙々と皮むきしていたのを思い出しながら、茫猿も黙々と包丁を使いました。

今日のこれからは、薩摩芋、伊勢芋、里芋の芋掘りです。試し掘りの様子では、収穫が期待できそうですが、これも掘り上げてみなければ判りません。いずれにしても秋はようように深まり、四囲の田圃ではコンバインによる稲刈りも始まり収穫の秋真っ盛りです。

《追記》
芋掘りの結果は、素人農法の限界を示すものでありました。 気まぐれな自然相手の難しさを示すものとなった。里芋は試掘による予想通り上々の結果となったが、薩摩芋は試掘予想を下回るものだった。伊勢芋に至っては無惨なもので、トロロ飯の期待は外れであった。昨年初めて栽培した伊勢芋は初めてにしてはの出来だったから、今年に期待したのだが蜜柑くらいの大きさの芋が二、三個という始末だった。だからこそ面白いと云えば、まさにその通りなのだが、総ての作物が安定した収穫を得られるようになるにはまだまだ経験不足と云うことなのであろう。鄙の芋爺にしてからが、日々精進、生涯勉強ということでもあろう。

コンンバインによる稲刈りを見ていて思った。我が鄙里でも、五十歳未満で手刈りによる稲刈りを経験した人はいなくなり、稲架掛け《はさがけ》による稲束の乾燥を知る人もいなくなった。《今や、コンバインで収穫した籾を軽トラで農協カントリーへ運び乾燥貯蔵するのである。自家収穫米を自家精米・自家消費など何処にも無い。》

足踏み脱穀機などは見たことも無いだろう。茫猿は手植えによる田植えも、手刈りによる稲刈りも、稲架建ても稲架掛けも小学・中学時代に経験しているのが秘かな自慢である。稲架(はさ)とは稲束を掛けて乾燥させる為の、杭と竹を縄で組み立てた大きな格子状のもの。晩秋になれば、農村の懐かしい風物詩だった。稲架造りに使う長さ3〜4mの杭と竿竹が最近まで少し残してあった。この杭と竹を処分したのは母が亡くなって暫くしてからのことだった。 子どもの頃に遊んだ近所の納屋の隅には錆びた”千把扱き”が転がっていた。七十を超えた今は、有機無農薬での野菜栽培を勉強中なのである。

《追々記》
もう少し稲架の思い出を記してみよう。戦後の我が家は、昨年四月に亡くなった叔父の家と二軒共同で約七反の田圃を耕作する零細兼業農家だった。専業農家と違って、牛も馬も飼っていなかったから、田起こしは専業農家に依頼していた。しかし、田植えも田の草取りも稲刈りもすべて一家総出の人力作業だった。小学生の頃から苗代から植え付け田圃までの苗運びに始まり、田植えの筋植え、田植え、草取り、稲刈り、稲架建て、脱穀、稲架こわしなど総ての作業を手伝ったものである。

当時《昭和三十年代まで》は、五月と十一月には農休みという学校が休校になる習慣があった。農家の子弟が親の農作業を手伝う為の休暇である。初夏の田植えも秋の稲刈りも腰が痛くなる辛い作業だったが、野良で食べる秋の昼飯は藁で焼いた塩サンマが旨かった記憶がかすかに残っている。

初冬になれば伊吹オロシが寒さを運んで来るのだが、稲束がかかる稲架の南側は北風がさえぎられる日だまりだった。脱穀が終わった稲架は北風に竿竹が”ヒュー  ヒュー”と鳴っていたことも思い出す。北風に吹かれながら、稲架を取り壊して、1kmも離れていた田圃から我が家の納屋まで杭と竿竹をリアカーに積んで運ぶのである。

牛を飼っている専業農家は大八車を牛が曵いてくれるが、我が家は私が牛の代わりにリアカーを曵かねばならず、それが恨めしかった記憶もある。農家に耕耘機が入り、コンバインが導入される頃には、我が家の田圃は町の施設用地に買収されて、我が家の水田経営は終わったのである。

今にして思えば、父や叔父とともに初夏も秋もよく働いたなと思い出す。でも子どもの頃に大人に交じって働き、鍛えられたからこそこの年まで健康でいられるのだとも思っている。鍛えられたと云えば、叔父には随分と鍛えられた。「兄さんは《父のこと》ニスイから《働きが弱いから》、その分君が頑張れ。」と、小学生高学年だった私が青年の叔父と同じように《とはいっても当然の差はあったろうが》、後を追いかけて働いていたと思い出す。 古稀を過ぎて畑作に勤しめることだって、子どもの頃からの「門前の小僧が習わぬ経を読んだ」お陰なのだとも思っている。

 

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