雨の木曜日である。今日は4/28、明日から世間は大型連休である。5/02と5/06を休めば、4/29から5/08まで十連休となる。現役の頃であれば、間違いなく5/02と5/06を事務所休日として、十連休としていたことであろう。そして誰もいない誰も訪ねてこない事務所で、日頃は出来ない仕事、例えばプログラミングとか不要不急のデータ処理などや事務所の書類整理などをしていた。
不要不急業務を終えて柳ヶ瀬へと考えても、休んでいる店が大半だから飲み歩きも無くて家へ真っすぐ帰るという、至極健康で安全な休暇を過ごしていたことだった。事務所へ出ない日には多少の農作業もしていたが、当時の畑は両親の領分だから、せいぜい雑木林の下草刈りや防除作業くらいだった。
連休に何処かへ出掛けると云うことはあまりなかった。何処へ行っても混雑しているし、宿をはじめとして連休料金を取られるのも気に入らなかった。家族、とくに子供たちからも出掛けないからと云って苦情を聞かされた記憶もない。当時は子供たちと別居していたから、彼らは遠方へ出掛ける代わりに祖父母が住む実家に滞在することで、出掛ける代償としての非日常を過ごしていたように振り返る。
その代わりに、連休をはずして出かけていた記憶がある。あるとき、連休最終日かその前日くらいから一週間ほど家族で海外へ出かけたことがある。学校へは親の事情でと欠席届を出しておいたのだが、休暇を終えて学校へ行ったら黒く日焼けして登校したので、何をしていたのだと問題になったことがあった。「親の事情で休ませたのだが、なにか問題がありますか、必要なら父親が説明にゆきます。」と伝えたら、それで沙汰やみになったと朧げに記憶している。
過去の五月連休は何をしていたのであろうかと、「鄙からの発信」アーカイブを振り返ってみたけれど、何の記事も掲載されていない。2008年連休に四国の庵治町へイサムノグチ記念館に出かけたという記事を見つけ、連休に出かけるなんて珍しいなと思ったら、四月前半の旅行を連休中に記事としていたのである。連休中はいつも緑陰薫風を楽しんでいたのである。考えてみれば当り前のことである。「鄙からの発信」を始めた1999年当時に、二人の息子は既に進学して親元を離れていたので、家族旅行の季節は既に過ぎ去っていた。
子供たちには迷惑だったかもしれないけれど、混雑する連休に出かけなくとも、こちらの都合で休暇を取れる自営業の特権を満喫していたと言える。だけど、正月は地価公示に追いまくられて正月気分無し、夏の盆休暇も地価調査終了後に滞留した業務に追われて休暇無しという繰り返しだった。 毎年の夏休みはスタッフが休暇を終え、旧盆も終わった八月下旬が恒例だった。一週間程度の家族旅行が常だったけれど、海も山も秋風が吹いていたから、幼い子供たちは唇を振るわせながら泳いでいたと記憶する。《親爺と海に行って日焼けした記憶などは欠片も無いだろう。》
もう取り返すこともやり直すこともできない日々を思い出しながら庭を見れば、満開のヒラドツツジが雨に濡れている。サツキが咲くのは連休後半くらいか。
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