いつも綺麗にしてあるねと叔母に褒められた。近所に住む叔母が医院へ通うたびに鄙里雑木林の前を通るのである。「以前は鬱蒼と生い茂るままだったのが、この頃は下枝を切り払い下草も刈り払ってあるから、眺めていても気持ちがいい。此の春は桜を長いこと楽しませてもらった。」と褒めてくれたのである。
七十を幾つか過ぎれば褒め言葉などは、額面どおりに受け取ることもなく、さらりと受け流す術を身につけているけれど、日頃は”お姉ちゃん”と呼び慣している17歳うえの”卒寿目前の叔母”に、褒められるのは素直に嬉しいものである。
雑木林の整備も畑仕事も我が余生の生業《なりわい》とわきまえてはいるが、それでも誰かに評価してほしいと思う時がある。今や叶わないことだが父母に見てほしいと常々思っている。 父の一番下の妹であり、母の弟の妻であり、かつ近所に住いするという、身近と云えばとても身近、父母亡き後は父母の面影を偲ぶ唯一の肉親である叔母なのである。その叔母が日々の生業を見ていてくれる、そして褒めてくれた。防除にも下草刈りにも張り合いが出ようと云うものである。
シャクナゲが咲いた。小さな株を山採りしてきたのは四十年も前のことである。同行した地元案内人がまず根付かないだろうと言っていたけれど、母が丹精してくれたおかげで根付き立派な株に成長した。今年も母の命日を前にして花咲かせている。なにやら命日に手向けるような開花である。
カエデの実が風に乗って飛び立つ準備を整えつつある。カエデと云えば紅葉ばかりがもてはやされるけれど、芽吹きも新緑もこの紅い翼を付けた実も心なごませるものである。
《追記》昨日はメーデー、明日は憲法記念日である。いつの頃からか、大型連休とかゴールデンウイークなどというかけ声に囃されて、メーデーも憲法記念日も影が薄くなったようである。三分の一に近い勤労者が非正規雇用に喘ぐようになってしまった今こそ、メーデーの出番であろうと思われるが非正規雇用者は労働者組織の枠外にこぼれてしまっている。
憲法記念日も同様である。立憲主義が危うくなっている今こそ現行憲法の出番であろうに、似非国益論とか似非安全保障論議に押されて憲法の平和主義、人権尊重がないがしろにされている。何よりも憲法前文の示す憲法哲学が顧みられなくなって久しい気がする。
G.Wとは罪なものである。昭和の日も緑の日もメーデーも憲法記念日もそして子供の日も何処かへやってしまった。貧困児童、保育所待機児童、奨学金債務に苦しむ若者を増やしている今の政治は問い直されねばならない。保育所全入を実現させ、国公立大学の学費を大幅に減額することが求められていると考えるし、日本の将来を確かなものにする最優先施策であろうと考えるのである。
地方創世を言うのであれば、保育所全入と低廉学費国公立大学を実現することが、地方の活力を復活させる糸口になるであろう。子育てが容易であり若者が集まる地方を創成することから、地方は再スタートを切ることが出来よう。何よりも子供や若者を優遇しない国に、未来など無いと知るべきであろう。
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